体罰事件では、伝統だと思っている、という生徒の会見がありましたけど、やはりここにも「自画像の歪み」が大きく影響していると思います。自校の、長く見積もって三十年そこらの伝統というだけではなくて、日本全体の伝統だというニュアンスも入っているように思うのですが、戦後に誰かが始めたものに過ぎません。
こういう生徒は選手になるのはいいのかもしれませんが、指導者にはなってはいけないし先輩風も吹かせないで欲しいと思います。
こういう生徒を作り出してしまうというのは、暴力の連鎖による、一種の洗脳だと思うんですよね。
プレイボーイでは古賀さんがこの問題に触れていて、古臭い体質として戦前の軍隊的な物を引きずっていると指摘し、和を持って尊しとなす、を引用して日本の組織の欠陥について話を広げていましたが、こういったいじめが起こる組織のあり方が古代からの「日本文化」であるとしている文章で、間違っているといえます。アジア専制論に自ら乗っかった形の認識であるといえます。
そもそも十七条憲法は成立の過程がつまびらかではないですけど、当時の豪族同士が合い争って戦乱が起こるかもしれないという中で発せられたものであって、そういう中で和を持って尊しとなせ、というのは理に適っています。前後の文章では議論を尽くせとも書いてあって、癒着した形の和に陥らないための目配りもあって、バランスの取れた文章だと思います。
それとこの文章の後をみると(人間的に)達する達さないという話が出ていて、単に仲良くするという意味ではなくて、もっと個人の精神的な意味を含んだ言葉と解釈するべきでしょう。中村元さんが仰る「崇高な和(やわらぎ)をいとしむ日本人の伝統的な精神」(仏典のことば―現代に呼びかける知慧 (岩波現代文庫) 126ページ)が含まれていることも見逃せません。
一方で例えば、江戸時代は幕府の禁令が出ても守られなかった事が多かったらしく、それについて「それをもって日本民族は法を守ろうとしないなどと言われてはたまらない。」(百姓の江戸時代 田中圭一著 75ページ)などと釘を刺す文章がありましたが、自由な活動を昔の日本人がすると、無秩序な動きであると解釈されるということが広くあり、著者の田中圭一さんも飽き飽きしているのが読み取れます。
論語に「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」とありますけど、昔の日本人が仲良くしろといったものは「同ずる」に分類して、自由な行動は「和せず」に分類する、という思考形態が戦後は流行ましたが、不正確で間違えた認識のもとにそのように解釈されているものが非常に多いと思います。
また古賀さんはTPP推進論者で知られていますが、こういった考え方とグローバリズムは大いに関係していると思います。
日本文化に対する正確さを欠いた認識こそグローバリズムの一つの大きな本質です。
例えば佐高信ですとか、反グローバリズム側にいるような人で、日本文化に対する不正確でネガティヴな情報を発信し続ける人がいますけど、私は率直に言って自作自演ではないかと思います。
また、横断的に「知識人」が全体について語る本が日本には多いですが、個別の研究がある分野を自分のイメージで語ってしまって、その分野を実際に考究した人が出した結論と食い違う、180度違ってしまう、ということが往々にあると思います。
現代はそういった隙間を生める研究も完備してきているので、是非オピニオンリーダーの方々はそういった研究を一度参照してから発言されるように、習慣付けていただくと、屋台骨のしっかりしたエレガントな国に近づくと思います。
それにしても私がみた限りテレビで日本にはそもそも体罰が(ほとんど)なかった、西洋と較べて行わないのが際立った特徴であった、という特集を組んだ所を一つもみないのですが、こういった問題を考える時に急所とも言える重要な事柄ですので、一社くらい放送しても良いと思います。恐らく子供の頃から専制的で抑圧的な江戸時代像を教えられてきているので、そういった研究を聞いてもにわかに頭を切り替え難い、放送し難いのでしょうが、是非乗り越えて欲しいと思います。
「豊川工業高 陸上部監督が体罰」(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130126/k10015078561000.html)というニュースもありましたけど、米軍の事件の時に立て続けに報道されたのと同じで、普段からあったことがクローズアップされているのでしょう。
そのときと同じで、一時期盛り上がって何も進まないでまた違う話題に流れる、ということが根本的な改善にまったく手をつけないままに繰り返されてしまうのではないか、と思うのです。
「「柔道部で体罰受け重傷」 藤村女子中高の元部員提訴」(http://www.asahi.com/national/update/0123/TKY201301220430.html)というニュースもありましたけど、案の定で、この監督は松本薫さんが金を取った時に「恩師」として出ていましたけど、目がいってしまっているタイプで、出てきた瞬間におかしいと思いました。
誰を何人育てようと私は認めませんし、松本選手が育ったのも元々素質に優れていたからでしょう。暴力だけ喰らって柔道でも生計を立てることが出来なかった人達の事を思うと胸が痛みます。
吉田照美さんのラジオで玉キングがいうには、最近の体罰は最早昔の体罰と違って、エスカレートして物凄い事になっていると言っていましたけど、確かに江戸時代はなく、戦前も無く、戦後に発生したのですから、どんどんエスカレートしていくのは時間軸としては道理です。
戦前の残滓、といった文脈で語られう事の多かった事件ですが、やはり残滓というのは正確ではなく、現代進行中で広がっている日本の病巣の一端が表れた事件と捉えるのが適当でしょう。
モーニングバードでは先週、良純が体罰に関して容認的な発言をした後、夜回り先生に、それはあなたが成功したからだ、これをきっかけに挫折した人もいる、といわれて以降押し黙るということが。今週の放送では一週間考えたのか、自分が間違っていた、と冒頭で述べて、やはり他の兄弟とは違って話せば分かるタイプなんですかね?
この前の福島の看護師が足りないのに待遇良く迎えない拝金主義の話をしましたけど、善意に頼って国はお金を出さないで復興させる、国のお金は自分たちの中で廻す、という思想が核心にあるんだと思うんですよね。
1月22日のNHKの9時代のニュースは最後「南相馬の医師、高橋亨平氏が死去 がんとの闘病を公表」(http://www.47news.jp/news/2013/01/post_20130123181759.html)のニュース映像を流しましたが、NHKが流すとよからぬ意図を感じさせる映像に。
NHKはリスクがあるにもかかわらず、原発に近い観光地のニュースも食品のニュースも風評被害を前面に押し出しています。電力会社の赤字も原発の維持費などではなく、燃料費の高騰であると報道しています。広域処理の経済的矛盾やリスクは伝えません。電力会社のいう通り停電を煽り、再生可能エネルギーや火力などの増設のサボタージュを伝えず、解決方法として発送電分離は提案しません。脱原発のデモは伝えません。
さらっと浮かぶだけでこれだけ出てきましたが、NHKは東電の事業債を購入しており、東電の経営が悪化すると損失が出ます。そして、これらは東電が費用を節約しようという意志と合致する報道です。そういう視点でこういった報道を観た時に、善意に頼って国(や東電)はお金を出さないで復興させる、という方向性に誘導する意図を感じないわけにはいかないのです。
高橋亨平さん自体は立派な事をされたと思うので、NHKのこのような報道の中で、善意だけに頼って良いのか、という提言も無く報道をされたことを非常に残念に思います。
この看護にしても、職人にしても、介護にしても、時にメディアなどで美しく語られますが、金銭的には恵まれていません。
前に源氏物語の話をしましたけど(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52310126.html)司馬遼太郎さんは、大したことが無い、率直にって馬鹿にしているものに対して、賛美の言葉を連ねるのが一つの特徴でしたが、本音と表面ということで言えば、現代社会に同じようなものを感じます。
もう一つ言わなければならないのは、南相馬で本当に安心して子供が生めるのか、ということで、ぐぐると玉川さんのそもそも総研の過去の放送の画像が出てきて、南相馬の多くははチェルノブイリでの義務的移住区域相当の地域に当る、と示されています。そういったことを踏まえて、氏の活動を総括して今後に生かしていかなければならない、と思うのです。
1月22日のニュースでは公明党の党首が中国を訪問しましたけど、当時の時代を知っている人が中国共産党と創価学会はイメージがかぶる、といっているのを聞きましたけど、確かに近い所があるんですよね。マスゲームが得意だったり、個人崇拝があったり、草創の時期であるとか勃興する時の熱気が似ているんですよね。
まったく結びつかないような両者ですけど、何か似たような流れも入っているのかもしれませんね。
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