安堂ロイドは冒頭部分を視聴。
最初のわちゃわちゃした感じから、華があったと思います。
でも、未来の知識を独占云々の所では、考え込むのを考えるような、唖然としている状態から移り変わるのを示す演技を一つ挟むと分かりやすくなるのではないかと思いました。
考え込むにしてももう少し、もう一方で警戒するような雰囲気を醸しても良い、とも思いました。
以下は自由に書くので、失礼。
この前にガイナックスの電波ヒロインの系譜の話をしましたけど、これのことを庵野さんは「リアルな女性」という言い方をするんですよね。しかし、こんな女性は観たことがありせんよ。
それで思ったんですけど、これはもしかしたらバブル時代の「リアルな女性」だったんじゃないですかね?アッシー君がどうとか。
それだったらわかるような。
エヴァの要素が形を変えてかなり入り込んでいるな、というのがこのドラマを観た感想。
どこから出てくるのかわからない敵を倒していくのとか、似ていますよね。
警察の所の親子の相克も、碇ゲンドウの時のように、過剰な父性を演出して、それに反発させることで、それに理があることなんだ、という風に持っていく感じの所がそっくりだと思います。
それはそれで、そんなにいちいちうだうだ言わなくて良いと思うんですよね。
「自分だけがナイーブで傷ついていると思いこめる鈍感さ。」という言葉を、エヴァの評論について、ネットで見かけましたがこの作品でも散見されて、正直気持ち悪いものです。
アンドロイドが味覚をインストールされて味を感じるようになったというのが今回の一つのお話。
エヴァには「笑えばいいと思うよ」というセリフがあったと聞いたんですけど、普通に笑えばいいのに笑えない。身体性が薄くて欠損しているので、教えてもらわないと笑えない、という現代の若者にも共通している状態をエヴァでは描いていたわけです。
非常に身体性が薄い状態が表現されているというのが庵野秀明作品の特徴で、今回はアンドロイドというそもそも身体性が欠落している存在を主役に据えて、味覚で同じことをやっているわけです。
しかし、もうすでに身体性の欠損が自覚されて、一部で社会にまずいと思われていて、もしかしたら回復期に入っているので(たとえば、子供の体力低下は底を打ったといわれる)、そこにとどまって低回するような描写は共感を呼ばないのではないかと思うんですよね。
戦いながらうだうだいっているのも、結局余裕があるからなんですよね。尾崎豊が最近の若者に受けないというのは、うだうだ言っている余裕がないので共感できないんですよね。
そういう意味でも、バブルやその余韻を非常に感じさせる作風、というのが庵野さんの特徴といえるでしょうね。
視聴率的に振るわないとしたら、やっぱりそういうところが少し古臭くなりかけている、というのがあるのかもしれません。
もはやバブル後の時代は終わったといえるでしょう。
人間不信が作風に投影されているので、同じように人間不信の人が、良くわかるといって観るのですが、結局それは癒えない。
それで「僕の命を救ってくれなかった『エヴァ』へ」なんていう本が出たりするわけですが、救ってほしけりゃ仏教を勉強すればいいんですよね。仏像を観に行けばよい。庵野さんのアニメを観るのはお門違いだと思います。
経済はボロボロになりかけるは、人間は荒廃しているは、という日本の状況をよく表している人ですよね。
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