「私はこう見るー“1945年8月15日”」保阪正康氏(作家)×平野啓一郎氏(作家)

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「「私はこう見るー“1945年8月15日”」保阪正康氏(作家)×平野啓一郎氏(作家)」は映画自体について言えば、クーデーターがどのような教育を受けた人間によってなぜ引き起こされたのか、ということが真剣に問われなければなりません。このような人間達が再び生まれてはならないのです。

責任者は戦後も責任を問われませんでしたが、責任を問わない社会そのものに対して痛切な反省とジャーナリスティックな斬り込みがなければなりません。

また文中では

平野 天皇に戦争責任はあるのか、ないのか。二項対立的な論争の時代が随分長かったのですが

とのことですが、全くないという人は相当少ないのでは。軽い重いの差はありますが。
司馬遼太郎さんの「真空」説のように、責任論を避ける「テクニック」はありましたけどね。

社会的に指弾されるのを恐れて二項対立だと言い張り語るべき問題を避けていないだろうか。

さらに

保坂 軍人は公的な場所で冗談を言わない。軟弱なやつだと軽蔑されるので。でも本作は時折冗談を言い合い、それがある種の清涼剤になっている。そういうところが新鮮というか、いよいよ戦争が歴史的解釈に移行したなという感想を持ちました。

は当然ながら気になるところ。

ユーモアは登場人物を冷静で親しみやすく見せます。それはドラマを魅力的にするのかもしれません。

しかし軍部とはそのようなものではないのです。これは絶対やってはいけないことの範疇です。
ユーモアのなさからくる硬直した思考こそが軍部とこの時代の核心だからです。

制作者は、魅力的な登場人物を作り上げることをするのではなく、どこまでも時代を描くことに徹せねばなりません。

かつての戦争ドラマは、今と同じで確かに責任の中枢には触れないし、美化したり被害を強調するような歪曲もあったのですが、当時の人たちは戦争の恐怖を実際に体験しているので、それを追体験させる意味で視聴者を怖がらせようという意識はとても強かったと思います。

それと比べても今は、憲兵隊が探しに来るとか、そういう描写もなく、怖さや理不尽も不足しています。

そういった国内での軍部の暴虐なども、描かれない傾向が強いと思います。

また、原因・責任に触れずジャーナリスティックでなく、メッセージ性がありません。この逃げはネトウヨが増殖するような環境を作っていると思います。

みんな悲しくてめそめそしているんだけど歯を食いしばって頑張りました、といった雰囲気のものばかりで、頑張っていることを美徳みたいに美化してばかりなのではないでしょうか。

戦争なんて残忍で汚いものです。そのような現実を忘れているのではないでしょうか。

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