(http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/06/kenjiro-sano_n_12824604.html)11月8日の「スッキリ!」では「「佐野研二郎氏の葬儀」多摩美術大学のパフォーマンスは無許可だった」について報道。
行った人たちを非難するコメンテーターが多かったですが、全く大したことだとは思いません。
パックンもアメリカでは日常茶飯事だといっていましたけど、これくらい大したことが無いでしょう。
弁護士の人のコメントとしては日本では損害賠償請求をされる可能性があるとのこと。アメリカは訴訟大国ですけどこういう風刺の余地はしっかり残しているんでしょうね。
業界人の佐野氏の側に立つコメンテーターの人たちは自分の社会的立場を勘案してコメントをしていないでしょうか。
こういうのはある種、炎上が目的ですから話題になって良かったともいえるでしょう。現代美術は炎上志向ですからね。半ばそれが価値だと思われている節がある。
今の学生は基本的に社会的なことはやらないから誰もが忘れている時にこういうことをするというのは余程うっぷんがたまっていたのだと思います。
一番重要なのは、佐野氏はある種の公人であるということです。
最近は政治家に対しての批判すら「失礼だ」云々といった非難が公然とまかり通っています。
私人と公人の区別しっかりつけないと言論は死に絶えてしまうのです。この区別をつけない言説は民主社会を破壊する言論弾圧であることをしっかり自覚してもらいたいと思います。
つっこんでいえば、民主主義だからというよりどの時代でも公に責任のある人間、為政者は批判を甘んじて受け、むしろ糧として喜びとするのが道です。
そしてこの境界を一緒くたにすることこそがたとえば「噂の真相」を休刊に追い込んだ「個人情報保護法」の狙いであったわけで、同じレトリックを使う人たちは追及されたくない政治家・政府の人間たちと共に腐臭を発する泥の中にいるといえます。
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