そして従来の説に従えば征韓論の裏側には禄を失い貧窮した士族たちがいます。そうでなくても西南戦争の理由はそれです。
なぜ貧窮しているか、というと、秩禄処分(とそこに至る前段階)の結果です。また、山縣有朋が兵隊は民間人から徴兵し士族を採用しないことを決めたからです。
山縣は数々の悪行が伝えられていますが、一番大きなエラーは私はこれだったと思う。
兵士は志願で募る。つまり士族を採用すれば社会の動揺は避けられたくさんの人が死なずに済みました。
やる気は財産です。武門として役割を果たしたい人を武門に迎え入れるべきなのです。
また武士はいわゆる武士道を継承している。精神性と共に争わない智慧も含めて合理的な戦いのすべを継承していました。
武士階級の崩壊が避けられれば、その文化も残存し、後の世の中の精神・身体・社会文化にたくさんのプラスの影響をもたらしたでしょう。
征韓論に始まる後の膨張主義も避けれられたかもしれない。
「兵士を将棋の駒扱い 愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー」(https://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html)で証言されているような、庶民が紙切れ一枚でいくらでも補充が利くゴミ扱いをされるようなことも起こりようがなかったでしょう。
また、庶民の多くが軍隊の精神・身体文化に染まるのを防ぐことができたはずです。
庶民が軍隊と無縁でいられます。また、たとえば森有礼が運動会(兵式体操)を通じて国民全体に軍事教練を施す意義も薄まります。
これも柔らかな庶民文化をきっと維持させ、おそらく帝国主義的膨張に歯止めもかけさせたでしょう。
こちらの道を選べば、私が日ごろ非難する今日の教育の場においての軍隊的な手法も恐らくみられなかったのではないだろうか。
とても大きな要素です。
その代り身分差別をする兵士は厳罰に処せばよい。その方針を徹底するべきだったと思います。
身分の残存が懸念されたようですが、むしろ少しずつ解体することによって、ソフトランディングとしての明治維新を達成できたのではないかと思います。
徴兵制は日本全体のためというより、士族を集めることを怖がった新政府の一時の臆病心がそうさせたんでしょうね。
反乱軍の拠点にされることを恐れて多くの城を廃城にしたのも同じで、新政府は一時の安定を得るために随分大きなものをたくさん捨てたと思います。
あとはとにかく、明治人は江戸的なものを反射的に崩壊させたかったんでしょう。
西郷も最後は山縣に賛成しましたが、むしろ徴兵制を敵と定めて、そう強く主張すればよかったんじゃないのかなあ。
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