では
「黒川検事長、「賭けマージャンで辞職」の衝撃度
問われる検察とメディアの「不透明な関係」」
の一連の事件について。
「そういうことはあるんですか?」と楽しそうに「田崎スシロー」のニックネームを持つ田崎史郎氏をいじる恵氏が躍動している形だ。しかし笑い事ではありません。
田崎氏は自らも金丸信に葡萄を貰ったエピソードなどを披露。物を貰っても「後で」ちゃんと書けばいい、と繰り返す田崎氏。
それは関西電力がもらったけど便宜は取り計らっていないといっているのと同じだ。収賄という概念そのものが消えてなくなってしまうだろう。
「後で」というのも(仮に本当だとしても)遅きに失した話で意味がない。たとえば関西電力では当事者が死んでいる。詭弁に過ぎない。
欧米など海外では一切貰ってはならないというのが基本だといわれています。貰っているなどというと仰天嘆息されるようですね。あたりまえのことです。
「寿司友」もあってはならないというのも常識だ。
Wikipediaの「報道倫理」の項目を引用すれば、国際ジャーナリスト連盟が1954年に採択した「ジャーナリストの義務に関するボルドー宣言」では「報道に関する金銭の授受の排除」を掲げています。
佐高信氏の本であるとか、雑誌全盛の30年くらい前は誰が誰にお歳暮を贈ったとかそういう情報が結構流れてきたものですが、最近はさっぱり流れてこない。
ジャーナリズムに穴が開いている。その穴が開いたところでやりたい放題になっていると感じます。
大手とフリーの中間みたいなところが薄手になっているのだろうか。
スタジオでは鎌田靖氏がもし誘われればコロナが無ければ自分も行っていたと証言。氏を始め、よくあることという証言が相次いでいますけど、その情報の流れが大手メディアの甘い蜜であって、大本営発表的に流れる原由だ。その自覚が必要です。市場でフリーに優越するものであって、情報=金なのだ。だからそれだけで本質的には一種供与ともいえる。
一つの提言として、今はネットでいつでも紙幅に関わらず公開できる時代だ。
記者が権力者と会ったら逐一ネットで報告するのが良いし、記者としての義務に適うのではないか。
知られて良くないことはしなければよい。
コメント