Bunkamuraザ・ミュージアム 国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展その9

#その他芸術、アート

テレビの震災時の報道の振り返りで私が唯一観たのはメルトダウン隠しについてスポット的なニュースで短時間取り上げられたもので、正確性が担保出来なかったというような内容でしたが、戦時中の報道でも同じでしょう。軍以上に正確な情報を掴むことが困難だからといって、明らかにおかしいなと思ったらそれを鵜呑みにしない記事を書いていくのが当然ではないでしょうか。

このことだけに限っても、「事故の初期にメルトダウンした事を認めていれば、住民はもっと迅速に避難できていたはずです。それが東京電力、そして政府の楽観的な見通しのせいで、住民は大量の放射能で被曝をさせられてしまいました。」(原発はいらない 小出裕章著58ページ)といったことの片棒を担いでしまったことを重く受け止め、振り返る特集と再発防止策に大きく力を注ぐのが当然だと思います。

新聞ではいくらか震災前のメディアについて振り返るものが発表されましたが、震災後のメディアの状況も改善されておらず、そのような状況で熟読する気になるものがなかなか無かったのですが、朝日新聞の小森記者が書いた「原発とメディア」のマネー編はいくらか真摯に書かれているような気がして、良く読んでみました。

田原総一郎が原発を一貫して批判していた様な筋立てになっていましたが、震災後においても氏の発言はむしろ原発推進よりであり、そこから考えて疑問を感じます。調べると以前より推進よりであったという証言も多く出てくるので、バランスを取った上でもっと突っ込んで欲しかったと思います。

旅行を初めとしたメディアとの馴れ合いも良く書かれていたと思うんですけど、個人名について突っ込みが甘く、社内調査をした上でもし誰も出席していなければ、自社は関係していないと言い切って欲しかったです。

マネーということで言えば、NHKと900億といわれる東電の事業債の話も欠かせなかったと思います。新聞・テレビ局関係のお金の入り方の規模や、その後の回り方はつまびらかでは無かったですね。

さらにマネーということで言えば、「プロメテ」でやっていた食べて応援や広域処理など、政府からお金を受け取った電通・博報堂のメディア支配についてももっと突っ込んで欲しかったですけど、きわめて重要なのにテレビで表立って報道されることがまったく無いということがこれも一番まずくて、尖閣報道の50倍以上の質量で検証するべきことだと思います。

経営と編集は分離している、とかかれていましたが本当にそういいきれる状況にあるのでしょうか。

朝日新聞でも以前の原発事故の扱いは非常に小さかったといわれ、事故後もデモは報道されませんでしたし、原発を再稼動したい電力会社側の節電攻勢も垂れ流しです。これを旅行や広告費と結びつけるなというのは難しいと思います。

伊丹原発のときの関西電力の毎日放送に対する圧力は相当強力だったそうですし、種まきジャーナルは圧力で潰されました。

テレ朝では久米さんがトヨタに圧力を受けたのが有名です。実際にその後、番組終了を番組名変更とすり替えたこすっからいやりかた―――だまし討ちといえると思うんですけど―――で無くなってしまいました。確かそれ以前にもテレ朝の社長だかが、ニュースステーションにおとなしくしてもらいたいとの旨を言っていて、これは介入でしょう。

それ以外にもたとえば銀行やそれと結びついた官僚などに対する報道が極めてぬるいと思うんですよね。税金も長らく払っていなければ、癒着も解消されず。消費者金融を取り込み、貸し剥がしを続け、なお高給を維持しており、今回は東電解体を留める最大の勢力です。
こういったことが読者に十分に伝わっているとは到底思えません。そこはやはり資本との関係があるからという解釈で間違いないでしょう。

こういった状況で、編集と経営は分離されていて影響は無かった、とするのは考え難く不誠実な振り返り方だと思うのです。「大半のマスメディアが広告宣伝費に依存した経営を行っている以上、この1000億円のパワーは、あらゆる批判や抵抗を無力化して余りあるだけの威力を持つ。」(神保哲生 http://blogos.com/article/49186/)という実際の現象に立ち返った振り返りが、あらゆる大手メディアの内側から起こることが求められています。

記者クラブについても触れられていましたが、震災後に東電に様をつけたので批判されたというのは、そこまで話題になっていなかったと思うんですよね。記者クラブの弊害はそういう表面的なところ以外にあって、メルトダウン隠しや再稼動を狙った節電キャンペーン、speediを会見で追及しないことにはじまって、横並びはすべてこれの弊害といって良いでしょう。

また、政府から貰った情報を垂れ流すだけで商売になってしまうので、国に対する申し立てや監視が非常に甘くなってしまうんですよね。ごく一部を言えば、東電関係の人や班目委員長や(逮捕されていない)官僚を家まで追い回すといったことはやらないんですよね。反原発デモは国の方針と違うので?(超巨大化するまで)伝えません。

東京新聞はこれらの弊害をまだ免れているほうで、実際圧力や嫌がらせもあったと聞きますが、東京新聞や地方新聞と大手の報道ギャップは、記者クラブに象徴される半官半民のあり方が大きな理由です。

また以前から批判があるのに無視していたことも非常に問題で、それで非常時に対応できなかったわけですので、これも悔恨を込めて振り返るべきなのではないかと思います。

「様付け」を代表的な批判として出すのは、問題を矮小化しようという意図を感じます。

南直哉の就任に対する疑問も書かれていましたが、これは確かに凄まじく疑問なのですが、それをテレビ局で堂々と批判しあわないのがもっと問題だと思うんですよね。そこを批判して欲しかったと思います。
これも先ほどの記者クラブの弊害が関係しています。

他にも大事なことはありますが、マネーという部分に絞り、書かれている事に沿って感想を書けば、他の論考に比べればかなり気迫を感じますが、こういった不備を感じました。

朝日新聞は山中教授へのインタヴューでは立花隆を出していましたが、科学の記事については嘘ばかり書いて批判を受けて、本人は謝罪も申し開きもしていないんですよね。そのような人をこの場で前面で押し出すのはどのような見識なのか。

もっと言ってしまえば、この人は「宇宙からの帰還」も脳死に関する一連の論考も内容が薄く、本質的なものを感じず、人の精神の深みという所からみると、外れたところで遊んでいるなという印象を私は持ちました。深めていくのではなくて、表面的な、オカルト的な方向性に流れていく傾向があるんですよね。

批判本でも二進法思考が問題にされていましたけど、これは私も昔から気になっていたところで、考え方に混沌を混沌として受け取るような素養が無くて、表面的なんですよね。

軽いものですが、一番何を考えているのかと思ったのは「立花隆のすべて」に入っている、物を捨てるべきか否かということについて書いたもので、結論は取っておいた方が蓄積されるので良いとのこと。一番切実なスペースとのせめぎあいについてはまったく書かれておらず、そりゃ場所があれば誰でも取っておきますよ。どうも論理的な思考や、正直さについてかなり難のある人なのではないかと感じています。

夕刊では花緑さんの連載が始まりましたけど、この人は菊姫さんの件で、どうも納得できず、仕事を依頼するなとまではいえませんが、どうしたものか。

10月19日のたけしのニッポンのミカタ!では農業の問題を扱っていましたけど、個人が米の輸出で台湾での挨拶から販売経路の開発から何からやっていて、農家の情熱に感動しつつも国の無策に泣けます。

新自由主義というのは役所の怠慢に理由をつけただけではないかとも思う今日この頃。

減反で数字で切っておいて、一方では無駄な干拓をして、無駄な予算を使って、環境を破壊していくわけです。
勝手に決めて後は干渉しないというのではなくて、米粉を工夫してみるなり、付加価値を積極的につけていく手助けをしたり、海外の販売の助けをして、展望を示すのが本来の政府の仕事です。

大阪の大規模な試験場も紹介されていて、室内の水耕栽培で工場的に野菜を作るのをやっていましたが、問題はコストだとのこと。それはこれだけ大規模な施設でやっておいてコストがかさむのは当然で、工夫が感じられません。何か無駄な箱物の匂いがするのですが、実際はどうなのでしょうね。

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