レコ芸で吉田秀和追悼特集が出ましたね。
一番長い文章を寄せられたのは片山杜秀さんで、芸術は教養を共有した少数者のもの、と書かれていましたけど、伊福部昭さんの野蛮の乱舞が音楽的内容にもかかわらず楽壇で高い評価を受けられなかった理由と同じロジックで、やはり両者の思想は根本的に隔たっているのではないかと思います。
片山杜秀さんが特に吉田秀和を絶賛し始めたのは伊福部昭さんの没後でしたけど、私が申し上げるまでもなく、そのようなことを直観的に感じられているのではないでしょうか。
こういう記号的な教養を積み重ねてこその文化、という考えは、日本文化を軽視させてきた思想とも同じで、確かに日本音楽は和声や対位法などを積み上げて来た西洋音楽と較べると記号的な積み上げは少ない文化なんですよね。
では何を重視していたかというと、仏教の教義を観て行くと判りやすいのではないかと思います。
仏教では無為自然の境地を目指していくわけですが、こういう洗練された意味での自然性を競い合っていたのだと思うのです。仏教的なものさしでみてより自然性の高いものを目指していたんだと思うんですよね。
そして実際良質な邦楽を聴いていますと、やはりこういう仏教的な玄淵な精神性を非常に感じる。つまり精神性を背景とした感性の積み重ね、競い合い、ということを観ていったときに、初めて価値を現すのが日本文化だと思うのです。
そういうものを共有した少数のもの、というのが本来の文化の精髄であって、実はヨーロッパにおけるクラシックの受け入れられ方にも似たようなところがあると思います。音楽として聞くということはどういうことかというと、感性で聴いているわけで、それは自然性に属することだと思うのです。
そういったことを積み上げていった末に出てくるのが文化であって、そうでないと相撲や、茶道や絵画や武術といった日本文化も、伊福部昭さんも、スポーツも、音楽としてのクラシックも、舞台芸術等等ほかのあらゆる芸術も理解できないと思います。
実際日本の政治などをみていて感じるのは、こういった精神性の極端な欠如だと思います。
文化を記号的な教養の積み重ねの上に立つもの、という考えは、本質的ではないですし、まちがっていて、ユーロセントリズムを導きかねない考えだと思います。教養とは取り戻された純真に他ならないのです。
ただ仏教では言葉にできない境地を目指しているわけですが、実際は沢山の言語の積み重ねの伝統があります。そういった言葉にできない境地を目指すためにプラスになる、というときにこういった言語の使用が正当化されるわけですが、吉田秀和の評論を観ていると直截的に音楽の本質に切り込むわけでもなく、むしろ並列的な文章の中で煙にまいているような印象を受けます。
それに実際、自分の耳で聴いていると、世間ではほとんど評価されないけど、自分だけは評価している、という人が出てくるものですが、吉田秀和にはそういうものがありません。グレン・グールドも賛否はありましたけど、当時から有名な人だったのではないでしょうか。そういうのがあれば良い、というわけではないですが、そういうのが無い人は一般の音楽ファンでもあまり信用できない。江川紹子さんの音楽の好みなんかを観ていても、世評が高いのを絶賛してくるのが大体で、演繹的にそこから社会批評に対するスタンスがうかがわれ、そして具体的に観ていった時にそういったものは外れていないなと感じました。
そういった点からみると、彼が聴いていたのは音楽ではなかったのではないかという気すらするのです。
吉田秀和が「書いたこと、書かなかったこと」と偶然に、司馬遼太郎ファンが書いた研究本と同じ様なタイトルで文章を寄せられていた人がいましたけど、直感的にもこの二人は同じ匂いを感じるんですよね。
伊福部昭さんの公式ホームページに歩き方を忘れた男の話、が書かれていましたけど、日本人として主体的に音楽を消化していこうという気概を感じる事がなく、司馬遼太郎とともに日本人に歩き方を忘れさせた人物の一人なのではないかと思っています。
いってまいりました。
といっても、素晴らしい展覧会だったんですが、あまり言葉で表現するようなものではなく、感想は短めに。
チラシにもすられている「国宝 黄色地鳳凰蝙蝠宝尽くし青海立波模様衣裳」(18-19世紀)は流石に輝く出来栄え。
輝くようだといえば、Qさまは最後の方をちょこっと見たんですけど、服装と相俟ってとても爽やかだったと思います!正解ばっかりで素晴らしいと思います。
一時期非常にクイズ番組が流行って、今も沢山やっていますけど、これはやはり社会状況と非常に関係していると思います。
今の時代はみんな技術なり知識なりを求められているんですけど、同時に一億総プチ鬱状態で、難解なものに飛び込んでいくリソースが足りないんですよね。なので娯楽なんだけど、なんとなく勉強しているような気分にもなれるものが流行る。クイズ番組ともしどらが筆頭で、もしかしたら最近流行っているという、ポップスを英語でカヴァーしたアルバムも同じなのかもしれません。
AKBももしかしたら、見ていると勉強したような気になる何か、を展開すると非常に流行るのかもしれません。
これを政策的に見ると、とにかく技術と知識を高めろというのは、橋下知事をはじめ新自由主義の人がよく言いますし、まったく逆の立場の神野直彦さんも「知識社会」という言葉を使います。そういったものをどうやって実現していくかと考えるとやはりこのリソースの部分に注目するのが重要だと思います。そういう意味からいっても、さらにストレスを与えれば知識・技術高まるんだ、という新自由主義の主張は、理想的にいっても破綻していますし、実際はさらに、路上生活者の方のかなりのパーセンテージが知的障害を持たれている、など平等な競争とは程遠いのが現状です。そして電力など競争を導入するべき所に競争が導入されないのも、新自由主義の特徴なんですよね。
結局人が向上するということはどういうことか、ということを深く掘っていくことが、あらゆるマクロの政策の基本になるのだと思います。
またもう一ついえば、新自由主義を主張している、一人一人をみていくととても有能とはいえません。小泉にしても橋下にしても、はっきりとした成果を挙げたことは無いでしょう。拉致被害者を連れて還ってきたのが、成果とはいえますが。
やはりそれは彼等一人一人も実はリソースが足りない状態で、心身がひっからびているが故に、多様な価値観・判断力を失って、また新自由主義に凝り固まっていく。そういう悪循環を国全体で繰り返しているのが今の日本の現状だといえるでしょう。
6月23日のANNはデニムの取材が素晴らしかったと思います!人も料理もシンプルなほど、素材が映えると思います。
6月24日のANNはレバサシを食べる姿が、とても瀟洒だったとおもいます!
雑学家族では、肩こりされるんですか。よかったら、やっぱり手首でも振ってみてくださいね(^_^;)
「藍地霞に梅枝垂桜鳥流水に蛇籠葵菖蒲模様衣裳」が月明かりに浮かぶ枝垂れ桜が、趣のある美しさを放っていました。
能の衣装と共通した意匠も多いらしく、それと中国風味と南国のアロハシャツのような雰囲気が交じって、独特の面白さがありました。
支えられている職人の技・伝統も極めて深く、それが後ろ支えとなっている芸術性が、重みを感じさせます。
沖縄の展覧会にはいってみたかったので、今回その空気感を存分に吸えてとても満足いたしました。ありがとうございました。
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