東京国立博物館 「空海と密教美術」展 第10展示期間 その6

#その他芸術、アート

杉並で大きな脱原発パレードがありましたが、テレビでみることはありませんでした
。官のコントロールに加え、やはり広告費や旅行が効いているのでしょう。
旅行にしても他のメディアはどうなのかと追及しあうのが当然で、フジテレビの東電天下りもそうですけど、メディアの間でお互いを監視する原理が働いていない現状はとてもまずいと思います。

2月22日のNHKの夜のニュースでは、天然ガスを購入していることが貿易赤字の大きな理由になっている、と報道していましたが、そこまでだと原発が安いかのような誤解を与えると思います。

そもそも飯田哲也さんによれば、原発はいつやめるか、といったものだそうですし、だから再エネを促進しよう、とかそういう風に纏めないと、未来志向といえないのではないでしょうか。

同日テレ朝のモーニングバードでは地元の経済の原発依存について報道していましたが、簡単に脱原発を言えるのは遠くの人だ、という地元の声を紹介していました。

しかしそこで留めては、禁断症状が出るから麻薬を続けようといっているに等しく、番組としては、政府にスムーズな産業構造の転換を促すような施策を提案するべきだったと思います。

そもそも産業は変っていくもので、もとの利権があるから体質を変えられないというのでは、世界の流れから取り残されるだけです。
変な不動産とかはじめてしまって上手く機能しているかとも思うんですけど、トヨタの一代ごとに違う業種に挑戦しろという伝統は、そういった転換を見越してのことだと思うんですよね。

29日には発送電分離をするとアメリカみたいに停電になる、とコメンテーターの人が言っていて、なりふりかまわないなぁ、というのが感想です。

「弘法大師像」は坐り方は半跏趺坐かあぐらですかね。下には木靴が置いてあります。

「聾瞽指帰」は書聖が24歳くらいで書いたものらしく、堂々としています。書体が変化したり、時にいきなり大きい文字が出てくるのですが、意味があるのですかね。
艶やかな覇気が感じられる書で、書体としては顔真卿に近いのだそうです。

いま顔真卿のウィキペディアをみたんですけど、莫山先生が空海が顔真卿の影響を受けているのは唐で流行っていたからだ、と仰っていたそうですが、これは出立前のものですから、その説はどうも成り立たないのかもしれませんね。

日本の書の歴史も書かれていて、鑑真が王羲之の真跡を請来したとあったのですが、残っていないんですかね。

列の前の人が中国の人のようで、何かメモっていたのですが、読み取れず。空海の書は、漢文だからわかるんですねぇ(多分)

「兜跋毘沙門天立像」は横からみるとかなりの太鼓腹なんですが、正面からみると均整が取れています。獅子吼する雰囲気が素晴らしく、上杉謙信ですとか、毘沙門天に帰依していたというと唐突に聞こえますが、こういったものから軍神としての在り方のインスピレーションを得ていたのかもしれません。
それを支える地天女と他二人の造形も丁寧ですし、眼は黒い石をはめ込んでいるのだそうです。

こういう像はいわば仏教の守護神なわけですが、私が好む伊福部昭さんや白川静さんにも丁度対になるように守護神がいます。片山杜秀さんと松岡正剛さんです。

今年は流石に伊福部昭祭的なものはやらないみたいですね。昨年は震災の影響もあって入りがあんまり良くなかったですからね。片山さんにはとりあえず、お疲れさまと申し上げたいです。

私が伊福部昭を意識して聴いたのは、図書館にあった日本の音楽のシリーズを聞き始めていったときですね。第一巻にシンフォニアタプカーラが入っていて、凄いなと思ってシリーズの他のCDも聴いたんですけど、現代音楽であるということのみならず、それ程良いのが無く、その前後に片山さんが褒めているのを読んで、ああやっぱり特別な作曲家なんだなぁ、と認識した次第。

ただ同じ人を好んでも、その人のどこに惹かれるかという事は人それぞれで、片山さんの伊福部昭さんの好み方と、私の好み方は少し違うなぁ、と感じることもあります。

伊福部昭さんは例外的に無調音楽を作曲することはありましたが、基本的には現代音楽には批判的なんですよね。一方で片山さんは現代音楽が一つの専門で、物凄く詳しいんですよね。

これは何故かというと、片山杜秀さんは悪い意味も含めた近代というのが価値観の中心にあるんだと思うんです。だから現代音楽がフィールドワークの中心にある。

そしてその強烈なアンティテーゼとして伊福部昭さんの存在があり、その間の漂う空間に片山評論の世界がある。と、こういう感じだと思うんです。

一方で私は伊福部昭的なものは将来の主流だと思っているわけでです。だから非常に良く好んでいるという面があります。なので片山さんの伊福部昭さんの聴き方を聴いていると、少しズレを感じることがあるわけです。

一方で松岡正剛さんですけど、好著「白川静 漢字の世界観」((平凡社新書)松岡 正剛 (著) )を読むと、少し白川静さんが非常に強く訴えた、東洋の理念の復活、という所への共感が弱いんじゃないかと感じるんですよね。もちろん東洋を解き明かして日本をそこからみる、という白川静さんの一番の目的はきっちり抑えられているんですけど、文字学を中心とした学問の方法論への共感を一番に強く感じます。

一時期民主党政権になって、政治家が頼りにする学者も一変し、松岡正剛さんが鳩山政権のそれに近い位地に居た事があったと思います。その時に松岡正剛さんがホームページでどのようなことを話されていたかというと、経済学のニッチのようなことを話されていたんですよね。

僕はそうではなく「東洋の理念」ということを正面から強く訴えるべきだったと思います。現代の政官財学会・言論界ではそういうことをやってしまうと完全に異端になってしまいますが、正しいのだから仕方がありません。ここを非常に強く訴えていくべきだったと思うのです。

だから非常に良いものをもっていたんですけど、それを正面から強く訴えて完遂することができなかった。鳩山政権もそんな感じでしたけど、この政権にしてこの学者あり、というか、そういうことを感じました。

今松岡さんに僕が望むのは、やはり漢字ですね。日中韓(ベトナム)で漢字を統一するような研究をリードして、政府に働きかけて欲しいと思うのです。

「増長天立像(二天王のうち)」(平安時代・仁和4年(888) 京都・仁和寺)はこの前のギリシャ展のポセイドンを髣髴とさせる威力で、腰の捻りが効いていて躍動感があります。
「阿弥陀如来および両脇侍像」(平安時代・仁和4年(888) 京都・仁和寺)は蓮が咲いたようでした。

躍動感といえば、ヘディングはなぜかしみじみと心に残るかわいらしさで、とても趣深かったと思います。
26日のANNはほんのり黄色の衣裳も白い衣裳と相俟って、柔らかい光が差すようでした!
何を着ても素晴らしいですが、最近の白系の衣裳はやっぱり美しいと思います。

分割いたします。

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