7月23日のNHKのミニニュースでは、京都府の職員が輪番で勤務をして、ピーク時の電力を削減している、といいますが、特にする必要があるわけでもなく、しかも無理っぽい節電はむしろ原発の使用を後押しするものなんですよね。非常に白々しい事をしているな、という印象です、
同じく、NHKは政府事故調の結果について「厳しく批判」とやっていましたけど、地震が原因であるということに突っ込まれない限り、痛くも痒くもなく、八百長がここに極まっていると思います。
失敗学の畑村教授がまとめた報告ですが、今回の報告書の内容で、氏の学問に直感的に違和感をもたれた方も多いのではないでしょうか。
7月24日の朝8時50分ごろのテレ朝では松井さんが、原発事故でわかったのは、保安院のお粗末な内実だという事を言っていましたけど、これはやはりテレビがしっかり、事故前にあらかじめ調べて報じるべきだった内容だといえるでしょう。
責任問題についても、自分が責任者だと気づいていなった、とSPEEDIを例に挙げましたが、これは危険な考え方で、存在には気づいていただろうし予算も沢山付いています。これはマスコミを含めた、自覚的なサボタージュだと思うのです。
同日12時半ごろには政府事故調について、疑問は疑問のままで自分に求められた仕事は終わった、といった畑村さんの言葉に疑問を呈して、更なる解明を求めていましたが、これは当然だと思います。
徹底的な解明をしなったことについても、地震を原因として認めなかったことについても、みたくないものはみえない、という言葉はこの政府事故調にこそ最も当てはまるのではないでしょうか。よく言いますけど、これもこれほど口でいうのはたやすいスローガンはありません。
松井さんは菅直人の介入が混乱させたというのはすべての事故調が指摘している、といっていましたけど、ぞっとした、という表現を、テレビ・新聞が一直線の横並びで都合よく切り取って菅直人の責任を指摘した文章である、としたことについて、情報が上がっててこないことにぞっとした、という意味であったという反論があったはずです。この間違えについてもテレビ・新聞は私が知る限り黙殺、少なくともそれに見合う訂正報道をしていませんし、菅直人の責任については、全体の責任逃れに使われる可能性があるので本当に注意しなければならない、というのが報道の姿勢の基本としてなければならないと思います。
大飯原発はいつの間にか4号機も動いていますけど、例え建前でも、電力需給と付き合わせてそのつど議論するのが当たり前で、それを飛ばし、しかもメディアも何事もなかったかのように流してしまっているのではないでしょうか。
今までメディアが報じてきた電力不足は本当だったのか、再び大本営発表に陥っていたのではないか、という振り返りは全体で必須だと思います。
7月24日の夜9時45分ごろのnhkのニュースは原子炉を冷やす作業が放射能の大量拡散につながったのではないか、とやっていましたけど、事故の解明にはまだまだ遠い状態です。
大越キャスターは、現実に流されて解明の手を緩めてはならない、といっていましたけど、こういう何もわかっていない状況で再稼動はおかしいと思う、というのが当然で、このコメントこそ財務省主導の再稼動の流れに(自ら)流されているコメントだと思います。
日テレがBPOに倫理違反を指摘されましたけど、本来は利益背反である人が中立であるかのようにテレビで流される、というのは島田市長、大飯市長の前例があり、こちらは指摘されないというのは納得がいきません。情報集めが足らないか、タヴーに配慮してしまっているのではないでしょうか。
北朝鮮の報道や中国のデモの報道が昔から流されますけど、いかにも日本が健全な国であるかのような錯覚起こさせる効果が強く、メディアの不作為と絡めて変な世界を構成してしまっていると感じざるを得ません。
7月25日の日テレの午後5時代のニュースでは原発の3つの選択肢についてのニュースを流していましたけど、15パーゼントのものが新規増設無し、というのは誤報でしょう。
再生可能エネルギーで25パーゼントも賄えるのか経済界の一部から疑問が出ている、ともいっていましたけど、原発関連企業の声を大きく報じているのではないでしょうか。
また3つのどの選択肢を選んでも電気料金は上がる、とやっていましたけど、再生可能エネルギーは先に行けば行くほど有望で、先行きについてちゃんと報じるべきだと思います。
7月31日の報ステは、福島の避難解除準備区域で人手が足りない、とやっていましたけど、それはボランティア不足ではなく、国や東電が資金をケチっているからだと思います。
田中俊一が汚染が酷い地域でも、人を帰してしまって賠償を節約しようとしていることと絡めて、拝金主義への批判をするべきだと思います。
ボランティアの青年は、東京で電気をたくさん使ってきたのだから、といっていましたけど、政府・メディアの嘘宣伝、排除の思想、拝金主義による老朽原発の無策な放置によって、犠牲にならなくて良い人が犠牲になったというのが福島の事故であって、もしそういう事をいうにしても、そういう視点からの批判を加えた上でいうべきことだと思います。
電気のためにと犠牲になった、という物語は、本質を誤らせる危険性を極めて多く含んでいると思うのです。
次に水俣のニュースがありましたが、同じく国の節約が本質です。
コメンテーターの三浦さんは国の初期のサボタージュを指摘していて、水俣と同じように福島を切り捨てるのではないか、と良い事を言っているようですが、責任放棄は拝金主義であるという所まで踏み込んで、当時や現在の責任者の個人名にまで踏み込まないとジャーナリズムとしての責務を果せないままずるずると進んで行ってしまう事案だと思います。
またこれは他の人もですけど、弱い人や、政治的に力をない人を切り捨てて云々ということを三浦さんは言っていましたけど、この弱い人、っていうのを佐高信ですとか良く遣うんですよね。見ていませんけどテレビで「岡部伊都子 弱き者へのまなざし」なんていう講座をやっていました。
例えば水俣の人ですとか、石牟礼道子さんが話されているのをちょこちょこ聞いた感じですと、地域に適応したとても豊かな文化や漁業技術を持っているんですよね。それはたまたま今の政府がそういったものを重視していないのでパワーを持っていないように見えますけど、本来はとても豊かなものを持っている人達だと思うんですよね。
佐高信ですとか、こういった人達を福沢諭吉的な社会観に基づいて、「弱いもの」に分類してしまうわけですが、こういった価値観が実は現代社会で一番問題なのではないかと思うのです。新自由主義や小泉を批判しているようで、その根っこの所を共有しているのではないかと思うのです。
現代でたまたまパワーがなかったり、日陰に置かれている人が居るからといって、そういった人を「弱いもの」に分類してはいけないと思うのです。こういう言葉を使う前に「国に道がないのに俸給を受けるのは恥である」(岩波文庫 187ページ)なんていう論語のことばを深く検討してみるべきだとも思うのです。
岸井某や寺島実郎のお友達のあなたは実に強い人であろう、と言いたくなるのです。
8月2日にはラジオで森本毅郎さんが、60歳以上を企業の意志で働けるようにする法律に対して吼えていて、これは要するに企業にとって気に食わない人は働けなくなるんですよね。
才能のある人が働けるというのはいいよね、とゲストの人が言っていましたけど、へつらいの結果を才能と捉える新自由主義特有の視点で、森本さんも批判していました。
デモがしにくくなる土壌というのはこういったことの積み重ねでもあるでしょう。
陸前高田の松林は、あそこに本来生えないのかな、と思ったら、ラジオである人がいうには、エネルギーを化石燃料に頼るようになっために、薪を取ったり下草刈りをする人がおらず、松がきちんと根を張らないで、実際の力を発揮できなかったのだそうです。
江戸時代以降も大きな津波は来ていますけど、それでも松が生えているのですから、やはり本来は耐えるものなのでしょう。
ここにもエネルギーの変革が関係していることは皮肉にも感じます。
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