出光美術館 日本の美・発見V―「笑(わらい)」のこころ その2

#その他芸術、アート

いじめ事件は公表をわざと遅らせたわけではない、と言っていましたけど、遅れたのは確かで、滞っていた所の責任者に責任を取らせるべきだと思います。

必要な場合は監視カメラ、というと過激になってしまいますけど、学校内での犯罪を見過ごさないようにする体制を注意深く布くべきだと思います。そして全体としての、あり方、体質の変革も必須です。

7月20日の報ステでは、ゲストの御厨貴さんがアンケート万能主義がある、とか何とかいっていましたけど、古舘さんがいいたかったのは、相手の身になってみろということで、まったく要領を得ないコメントだと思います。

現場の思い込みを指摘したかったのでしょうが、アンケートを取るというのは当然だと思います。

この御厨貴という人は以前からまったく信用が置けない人で、的外れなコメントが多く、この日もまず言葉が汚いと思います。政治史の人ですけど、簡単に言えば、日本で公に政治史家として活躍する為には、自民党について疑問を持たない・ぶつけない程度の人しか活躍する余地がなく、この御厨という人はそういったものを気が付かない・スルー出来て、どこか政治と一体化したような昂揚感も感じさせるような、学者としてはどうしようもない人だと思います。

自民党の政治というのは、思想の転換が云々とか、そういうレヴェルに達していなかったと思うのです。そう考えると日本における政治思想史というのは、存在自体がかなり無理したもの、ともいえるでしょう。

次の原子力規制委員会の委員長に就任した田中俊一のニュースでは、人材がいないからその中で一番いい人を選んだんだろう、といっていましたが、暴言といって良いでしょう。
小出さんを就ければそれで良いわけで、意図的に原子力ムラの外を無視しています。
ムラ外の感覚でいえば、禁断の人事と言えるほどの暴挙だと思います。

7月20日のdigで専門家の方が、活断層についても、少しずらして建てれば良いのに、といっていましたけど、都合の悪い要素をすべて無視してしまえるのが、原子力ムラの大きな特徴なんですよね。しかも何の苦労も無しに。
誰も責任も取らないことも嘆いていらっしゃいましたけど、それも大きな特徴ですよね。

サンデーモーニングは特集ではデモの歴史を振り返っていましたけど、特に安保以来なかなか大きなデモが無いのは、デモをやりにくい社会にしてきたのが大きいと思うんですよね。やると不利になるような。
社会の仕組み・空気的な物はあるでしょうし、法律的には最近では共謀罪の成立が記憶に新しいですけど、押さえつける国(とメディア)と国民という視点がほしかったと思います。

前に鳥越さんは、ここ何十年も市民の自発的なデモはなかった、といっていましたけど、その発言があった時点で原発関連のデモは沢山ありましたし、そうでなくてもそういうデモはあったと思います。
ただかなり強い思いを抱いている人しかデモに出難い環境があったのはたしかで、それは社会の仕組みや法律の改正に原因が求められるでしょう。
メディアはそのことを十分に報道して、戦うという事をしてこなかったのではないでしょうか。

このデモの特集でも原発に関するデモは振り返ったのですが、かなり大きな規模の野田やめろデモなどは振り返っていません。先にタブーを破って、あるべき報道を行うのが重要です。

野田やめろデモは結構重要で、消費税や国土強靭化に対してデモをしないのか、という人が居ますけど、これでカヴァーできていると思います。

サンデーモーニングでは寺島さんが聴取会に電力会社の社員が居たのは悪いことではない、といっていましたけど、利益背反のある人が政策の決定に影響がある市民の集会に出るのはおかしいと思います。
理屈が通っているとおっていない、ということで言えば、紫式部の言葉も織田信長の言葉もわかるが、寺島さんが言っている言葉は意味不明である。
原発ゼロという選択肢はない、といっていましたが、可能だという人も多く、議論をすれば良いと思います。

その盟友の佐高信もでていて、この人には震災後に失望した、なんていう話も聞きますけど、昔から身内に甘いんですよね。辛口というより口汚いというのが正しく、メディアと上手く共生してきた人だな、といった感じですが、震災後はもっと直裁的に原発問題などと向き合わないとごまかせなくなってきていると思います。
デモについても小選挙区制がどうの、といっていましたけど、原発と関係のないコメントで、観ていると直接の発言を避けるんですよね。
聴取会についても、会社と個人について話していましたけど、電力会社の利権と思惑と統制、といったところがより本質的であり、自分の議論に引き付けて問題の本質を見ていない(避けている)印象。

この人は、よく本田と松下を較べて、本田宗一郎は子供を入社させなかった、ということをいうのですが、子会社は作らせており、そういう自分の論に都合の悪いことは徹底的に無視できる部分で、原子力ムラ的な思考回路と変わらないと思います。世間の流行り病を抜け出していないといえるでしょう。日本文化に対する認識も戦前の域を出ていないと思います。

司馬遼太郎批判でも知られていて、と「司馬遼太郎と藤沢周平」は出版された当時私も読んだのですが、まず全然読み込めていない。
司馬遼太郎は日本文化・歴史を書いているようで、実はよく読みこむと、日本文化・歴史に対して評価が低い、というのが特徴なんですけど、まずそこが読みきれていない、と感じました。
良く言えば司馬遼太郎の「坂の上の雲」の読者の一部は批判しているのですが、明治時代を下り坂であると認識していたというところまで読み込めず、批判者と同じ誤読に陥っていて、本質的ではなかったと思います。

またこれまでも私が色々書いてきたように、裏を取ると間違っている、という話が沢山あるのですが、そういうのが書かれておらず、せいぜい小説のところどころにフィクションが挟まれている、というレヴェルの指摘に留まっています。
批判しているようで、実はある種の権威としての信頼を司馬遼太郎に感じていて、正面から丹念に批判することが出来なかったのではないかと思います。

文化方面の間違いなどについては指摘は皆無で、むしろ「この国のかたち」などに高評価を与えています。
ユーロセントリックな所や日本文化に対する無理解・低評価も二人の間に通底していて、自民党と社会党のようにコインの表裏を出ることが出来なかったのではないかと思います。

それにしても社宅の話ですとか、本当に海外の例が無いのか疑問ですし、最近ではむしろ会社の福利厚生として価値が見直されてきているような気がするんですよね。もちろん改善点はあると思いますが、それにしても悪い所を日本文化のように語るのは納得が出来ないですし、どれだけ裏づけがあるのでしょうか。むしろ人の機械化は産業革命以降に顕著であり、西洋思想の受用との関係に焦点を当てて理解するべきだと思うのです。

文化・社会におけるグローバルスタンダード(幻想)を推し進めた、といいますか、この人の思想って、小泉を批判しているようで、その路線と思想的にリンクするような所があると思うんですよね。

それとこの人もそうですけど、日本で新自由主義を批判する時は、福沢諭吉からの流れを同時に観て行って批判しないと、本格的なものにはならないと思います。

ついでに書いていえば、この人や城山三郎の文筆活動の影響なのか、hondaは非日本的な経営が自社の特色であると思っているような気がしますけど、良く働いてよく遊ぶことを推奨する所とか、水平的な組織ですとか、社風が江戸の職人文化に結構似ているんですよね。そういったところを大事にして根っこにすることで、さらに力強い会社になるのではないかと思っています。

古川大臣は聴取会の改善について「いささかの疑念もないように」といっていましたけど、細かい事を一々いうな、ということの婉曲語法の様に聞こえます。いささかが今回のことにかかるかはわかりませんが、これを重要だと受け取れないのであれば職務は到底務まりません。
オスプレイ配備の首相の「ご理解」もお前ら従え、の婉曲語法に他ならず、昨今の政府の言葉はわかりやすく翻訳するととんでもないことになりそうです。結局どうしようもない内実を、巧言令色で包み隠しているんですよね。

聴取会は、カテゴリ分けにしても、動員にしても、誰の意志でそう決まったのか知りたいんですけど、それに応える、テレビなどの報道はみませんねぇ。

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