東京都美術館 【特別展】メトロポリタン美術館展 大地、海、空 4000年の美への旅 その6

#その他芸術、アート

行って参りました。

この日は朝早く来たのですが、この前のフェルメール展と較べると人っ子一人いないといって良い状態。フェルメールの個の力が生んだ差だと思いますし、私も正直フェルメール作品が無いと少し寂しい気もします(^_^;)ジョブズのいないアップルもやはり斜陽傾向が出てきたみたいですが、一人いるだけで劇的に違うということは往々にあるものです。知り合いが「iPadmini」を買ったんですけど、やっぱり中途半端で損した、というような事を言っているんですよね。ジョブズが出してはいけないといっていたサイズですが、やっぱりどうも失敗だったのではないかと思います。

「僧道には五、六十人もいるが、この中に五人や六人は確かに真の仏になる者がある」(心にとどく禅のはなし―よりすぐり禅門逸話 禅文化研究所 (著) 139ページ)といった感じで昔の禅房も弟子を育てていたみたいですが、(少数で良いので)なんとしても本物を出したい、という姿勢の教育が必要なのではないかと思います。

この展覧会はまさにそうですが、新聞で欧米では(西洋)美術について、テーマによる展示が行われていて、そのテーマ設定などの学芸員の見識が相互理解を生んで、テーマ設定による貸し借りが気軽に行われているのだが、日本のように美術館展として開いてしまうと普段は展示しない二線級の作品に目玉の作品をつけて高く貸し出し料を取られてしまう、と問題を提起していましたけど、難しいものです。

特に西洋美術は日本人にとって外来の美術であって、自分たちの生活風土と密着するものでもないでしょう。テーマ展示にそれだけのお客さんが付くかというと難しい気がします。もちろん美術風土が高まってきてそういうのが有効になると良いのでしょうけど、それ以前に私は日本・東洋美術に対する見識を今の十何倍も高く積むべきだと思いますし、そこにさらに西洋美術となると難しい。

緩やかに総覧できるようなものを続けていくものの方が、現状に適合していると思いますし、その中で今展覧会のような見識が下に引かれた美術館展もあって、それはそれで良いのではないかとも思うのです。

自然を軸に構成された展覧会で、それはどうもメトロポリタンミュージアムの館長の「日本が文化の中で自然というテーマをいかに大切に扱ってきたかを心得ています」という見識から来ているようです。やはり外の目からみると日本文化の特徴は明らかですよね。

許光俊とその周辺の音楽評論家の人達は、口を開くと日本文化を貶しているような状態で、その音楽自体の嗜好についても、人工美としてのクラシックを重視するんですよね。ここらへんも話が繋がってきます。

(ただ、浮世絵はとても評価していて、日本文学にも高評価を与えています。他にも、演歌が日本文化はともかくとして、北島三郎を評価していて、近著では森進一(演歌ではないとも言いますが)を評価しているような雰囲気でした。
というより実は演歌ファンなのではないかと。
私も以前は演歌に一切シンパシーは無かったんですけど、宇野先生の評論を読んで、音楽を聴いていたらいつの間にか演歌が分かるようになっていたんですよね。
許さんも宇野先生の評論は若いときから結構読んでいたようでしたし、直接の話は無いみたいですけど、美意識の継承という面から言っても、結構似たようなものを持っている気がするんですよね。
彫り深くて感情豊かな表現を基本的に名演とする所が似ていますし、私が以前に作った「歌派or一音派判定○×」

フルート4重奏によるモーツァルト「魔笛」
結構聴くのを楽しみにしていたCDです。きびきびとして声楽では味わえない楽しさがありました。木管の、弦楽の、上手い演奏とはどういうものなのか、一つの例を教えてもらった感じでもあります。「復讐の心は地獄のように燃え」とかはキーがあんまりにも高...

でも、二人とも結構偏って歌派だと思うんですよね。
クラシックか宇野先生に演歌を人に悟らせるような成分が含まれているような気がするのですが、それが原因かどうかは分かりません。)

そんなに「オレ様」が重要な精神性なら、植民地支配や人種差別に始まる負の精神性はどうするのか。それに意外と欧米でも謙譲が美徳として重視されているという話を聞くんですよね。それに主な作曲家で「オレ様」的な人が何人いたというのか。そういった面では最右翼のベートーベンでさえ、ナポレオンの独裁を嫌って人類愛を謳い上げましたよね。
片山さんもよく言っていますけど、恣意的に一面を切り取って、日本文化を静的に捉えすぎているという問題も内在しています。

クラシックは民族音楽であると同時にもっと普遍的で、異質なものをどんどん取り込んで行くことで進化してきたのでないかと思います。

クラシックの衰退を良く嘆いていますけど、その正しいとも思えない、狭い範囲での規範性こそが業界を衰退させてきたのではないでしょうか。

はっきりいって日本のクラシックを聴く層には日本文化を貶すことで、西洋文化を受け入れている自分たちには特有の価値を生じさせるような人が多いと思います。

許光俊という人は宇野功芳的な面と吉田秀和的な面が半々ぐらい入っていて、いわゆる吉田秀和的な「社会心理学的なアクセサリー」としての部分はこのような構造で受け入れられていたと思います。

この前ちらっと立ち読みした「入門 朱子学と陽明学」((ちくま新書) 小倉 紀蔵 (著) )では、説明も抜きに、近代化できなかったのは自我が東洋で抑圧されていたから、と断定していましたけど、それなら日本の江戸時代に発達した市場経済はどう説明するのか。

例えば無為自然という言葉がありますけど、自然だから抑圧されていはいないわけです。かといってこれは何でもやって良いという(ポストモダン流の)思想ではなくて、たとえばマズローの欲求階層説でいうようなより高次な欲求を目指すべきだということで、これは東洋哲学すべてに当てはまるセオリーだと思います。
低次の欲求を示す言葉として「小人」「煩悩」といった言葉が使われていて、それを克服して「仁」や「悟り」といった高次の欲求をより満たしていくような姿が理想とされているわけで、それは自我の抑圧ではなく高次化を目指しているのです。

どうもマックスウェーバーという人の理論なのか、どうしても精神的な面から西洋の近代化を説明したがる伝統があったと思うのですが、どう考えてもアメリカ大陸や植民地からの富は大きく、それを元手に近代を達成したというべきでしょう。

こういった説に陥りやすい原因としては、近代日本の軍国主義が人間を抑圧していたので、それが昔からの伝統であるかのような錯覚が働いていることも見逃せないでしょう。

解説によるとアルカディアが古典的な自然に対する理解だったらしく、桃源郷のようなものなのか、と思ったのですが「草花と庭」の章では「エデンの園」について解説していて「「楽園」という言葉は囲われた庭を意味するペルシャ語に由来」するらしく「この語源は手入れされた庭に対する人間の肯定的な反応を示しています」とのこと。桃源郷には囲われているという感覚は無いだろうと思います。
それがそのまま西洋の自然観なのか、というとはっきりとは書かれていませんでしたが、違いはありますし、それで無いとなかなか生き辛い環境であったということでしょう。

「未知なるものへの畏怖を和らげる為、自然の力を人間に置き換えて想像してきました」らしく、ハリケーンに名前を付けるのとかもそうなのでしょう。自然を人間に置き換えた、というので私が真っ先に浮かぶのは、ラシュモア山のアメリカ大統領像で、高圧的で趣味が悪いなと思っていたのですが、インディアンの聖地に対する本能的な恐怖心が実は背景にあるのかもしれません。

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