「たまむすび」で小田嶋隆さんは統一球問題についてナベツネの関与を疑っていましたけど、テレビなどでこういった視点がまったくでてこないというのは、不自然であるという以上のことです。
小田嶋さんが新聞各紙を読み比べた所によれば、読売だけはこれでおしまいにしようという論調だったそうで、原監督はインタヴューで、表に出てよかったという以上のことは言えない、といったとのこと。
メディア同士批判しあう仕組みが機能していないのではないでしょうか。(機能しているのをみたことがありませんが)
また、問題になる以前にメディアが気がついていただろうことは確定的といえるでしょう。speedi隠しやメルトダウン隠しと同じで、同じように隠すのに協力していながら、公表される時期になると、あたかも今まで知らなかったかのように演技をして叩き始め(るふりをし)ているのではないでしょうか。
たまちゃんはボールのコミッショナーの名前について、職人さんの名前だと思っていた、と言っていましたけど、本来ならそうですよね。この報道が出た時に一番初めに連想したのは江戸時代の小判に職人の署名が入っていたことですけど、決して入っているのは将軍の名前ではありません。
事務のトップではなく、現場の職人の名前を刻むのが本来の日本の伝統ではないか。明治以来真逆の方向にひた走ってきたのが表れていると思います。
5月21日には「壁に当った自由報道協会」として、恐らく初めてこの団体に触れていますが、どうも失敗しそうなので恐る恐る触れてみた、という感じがあたっているのではないでしょうか。
内部や近傍の比較対象としてIWJなどを取り上げると内容のある記事になると思うのですが、そういった事をしないところに、私としては警戒心を感じます。
そもそも大手メディアによる原発のspeedi隠しやメルトダウン隠しに対する協力的な姿勢だけを取ってみても、こういった動きは絶対に必要なのですが、今回は中心人物の上杉隆氏のパーソナリティによって失敗してしまったというのが実情でしょう。
上杉さんの情報は大体どこかの誰かが言っていた事を自分の意見のようにいうか、根拠の良く分からない話、というのが多いです。
どこから持ってきたのか分かりませんけど、上杉さんの情報で原発が起こった直後の「スリーマイル以上チェルノブイリ以下」という情報が正確で、また以前から指摘されていた記者クラブの馴れ合いが東電などの記者会見にてこれでもかと炸裂したので、想像以上に信頼が膨れ上がった感じでしたが、残念ながら根腐れしていました。
自由報道協会の面々は人柄を観て、というのではなく、人気があるからあやかろうというような気持ちがあって、代表に推してしまったのではないでしょうか。また、内部で公正な議論が行われておらず、大手メディアは批判をしても仲間が何をいっても批判しないという態度では説得力がありませんでした。
新しいメディアは旧来のメディアより理想的でなければならないのです。たとえば現状の記者クラブメディアのような特権的な状況になったとしても、腐らないくらいのクリーンさが個人の資質としても求められるのです。そうでないと、結局日本のメディアは低回する様に循環するだけだといえるでしょう。
林香里教授の話として「協会のような小規模の団体が、世論に訴え続ける力を持つのは難しい。今後問われるのは、むしろマスメディアの対応なのではないか」とありますけど、記者クラブのような独占的な情報へのアクセス権や、市民がそれをおかしいのではないかと思う質量。そういった小規模の団体を運営する人間の人格・能力如何などによっては、大手メディアを十分凌ぐこともありえる。むしろ伍してゆかなければ日本の未来は暗いとすら言えるのではないでしょうか。
「米軍司令官解任の引き金、暴露記者が交通事故で死亡」(http://news.livedoor.com/article/detail/7781151/)というニュースがありましたけど、不審だといわれているダイアナの死も交通事故でしたが、何か交通事故は装いやすいのではないかと勘繰ってしまいます。
アメリカの暗殺といえば、やはり僕はジョン・レノンも釈然としない。真珠湾攻撃の日に殺されるのは出来すぎだと思います。お前は裏切り者だという政府中枢の怨嗟が聴こえるようではありませんか。
5月22日の朝日新聞の浜井浩一さんの文章は「「隔離」だけでは再犯防げない」という提言で「隔離するのが日本流である」とありますが、明治以来であるという事を付け加えないと歴史的な事実を見誤り、改善に時間と労力を要することになると思います。
江戸期がそうであったように、障碍者を地域で包摂する仕組みづくりは欠かせません。
また「イタリアは困難に陥った原因で人を差別しない」ともありますが、日本では病気の人も失職中の人も老人もまとめてしまっている生活保護制度の不備が指摘されています。分けるべきところで分けず、分けるべきところでないところで分けているというのが実情ではないでしょうか。
6月20日の玉川さんのそもそも総研では農家の所得保障のデータが出ていましたけど、大規模なイメージがあるアメリカで55パーセント、イギリスは78パーセントで、農業大国フランスが42パーセント。そして日本は27パーセントできわめて低いというのが分かります。
私が知っている例では、某所では例えば高速道路が走っていて、横には国道が。さらに横には国道のバイパスがあって、農道が並走しているというところがあるのですが、ただで信号が無いのでトラックなどが農道を走るということがあり、トラック用に作られているわけではないのでぽこぽこ穴が開いていたりするんですよね。
要するに「農業予算」で農道を作ったのが余計だったということです。
そもそも若者が継ぎもしなければ参入してこない時点で、農業が打ち捨てられており、まったくうまみが無い産業であることは明白です。
「ばらまき」といわれる農業予算はほとんどが土木工事に回っていて、そのお金の流れを観ないで、農家にまわっていると錯覚して、なまけるなとのたまう古賀さんですとかは頭が腐っていると思います。これでコメンテーターなどとして通用する方が、よほど怠けているのではないか。
坂茂さんの「カンブリア宮殿」をみましたが、紙の骨組みにカーテンをかけて避難所を仕切るアイディアを官僚に提案したら、被災者を管理しづらくなる、と却下されたが、後に現場では非常にありがたがられたとのこと。本当にどうしようもありません。
紙の骨組みやプレハブを積んで仮設住宅を作る工法が特徴的で、先進的な意味で言えば、百円ショップで部品を買ってきて組み立てるのの巨大版だな、と思いました。
村上龍さんはまとめで代表的な丹下健三の建築である都庁に疑問を呈していましたけど、都庁はだんだん年が経つにつれて、その感覚のおかしな感じが社会で気付かれ始めているような気がします。あの圧倒的なコンクリートのキッチュ性は趣味が悪いと思います。しかもそこには時代の精神性が表れているという・・・・・。
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