宮崎駿監督の熱風の憲法改正についての文章が無料公開されましたけど、見事な文章です。
文中司馬遼太郎さんの「鎌倉時代の「名を惜しむ」という考え方」が出てきますけど、やはりここでも内発的なものではなくて、外側からたがをはめていくようなところがあるんですよね。そしてそれでは失敗してしまうのです。伝統的な仏教の考え方でもありませんしね。人の内部の仏性によりどころを求めるのが仏教であって、人の眼がどうだから、というようないわゆる道徳的なものではないのです。
戦後の教育をはじめ、専門の僧侶ですらも、そのようなやり方に偏っていましたが、これからは変えていかなければなりません。
確かに鎌倉時代をはじめ武士は名を大事にするところがありましたが、その倫理的な規範の中心にあったのは禅を中心とした仏教です。
司馬遼太郎さんは禅が嫌いでしたから、リアリズムの時代として評価していた鎌倉時代の中心的な思想が禅であるということは言えなかったのだと思います。
また鎌倉時代を「無教養の時代」としていましたが、やはり禅を中心とした文化が栄えており、そのような評価は適切ではないと思います。
また、文中「法治国家として人間の権利を守るというのは、とても大
事な日本国憲法の柱ですが、歴史学者の堀米庸三さんなど
は、日本にはもともと基本的人権の根拠になる思想がない
と書いています。世界的にそう言われているから「基本的
人権」と言うけれど、その発想は自分たちの中にはないと。
では、どうするかと考え、堀米さんは死ぬ前に「仏教の一
切衆生悉有仏性という考え方で説明できる」と言っていま
す。(中略)人権という考え方を輸入せざるを得ないんで
すよ。それを自分たちの文化的な伝統や色々なものの中に
なんとか見つけなきゃいけないんです。
」
とありますが、これは正しい考え方だと思います。
日本にはさまざまな良質な思想が伝統的に集積されています。中村元さんが強調される「慈悲」の思想はこのようなものの根拠として適当だと思います。儒教の「仁」でも十二分だと思います。
戦後は長らく、例えばキリスト教が日本で禁教されたのは、平等の思想が為政者にとって都合が悪かったからだ、と解釈されておりましたが、国防の観点以外を最近は聞かないといってよいでしょう。歴史学をはじめ、日本には伝統的に人権的な思想がないかのようないわれ方をしていましたが、それは誤りであるといえます。
確かに基本的人権は欧米で宣言されたものですが、建前であって実際には基本的人権を持てなかった人が多くいたことも事実です。欧米の歴史と比べれば、日本は平和を築いた江戸時代のように、むしろ人権的な社会を実践していたともいえます。もちろんこれは同時代を比べた際の、比較的なということであるということに注意しなければなりませんが。
実際に「百姓の人権意識は、私たちの予想よりもはるかに早い時期から民衆世界の底流を流れ続けていた。」(開国と幕末改革 日本の歴史18 (講談社学術文庫)井上 勝生 (著) 107ページ)というような状況がありました。
そもそも近代自体が前にも引用しましたように「近代ヨーロッパは、一体化したそれ以前の世界の人々の様々な活動が総体として生み出した世界全体の子供なのである。」(東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史) 羽田 正 (著) 361ページ)とのように認識されており、学問的に基本的人権をわれわれ日本人が自分たちの伝統と繋がりがない外来のものであると認識する根拠は存在しないといえるのではないか。むしろその歴史を観たときに基本的人権の主体的な伝道者としてふるまってよいくらいのものを持っていると私は思います。
またこの「近代ヨーロッパは~」という文章を基準にして考えると、欧米で例えばジャレド・ダイアモンドが、アフリカが植民地化されて、衛生的な面が改善されたことで寿命が延びたことについて、ヨーロッパ帝国は19世紀版の国境なき医師団だった、というようなこといっていますが、簒奪した富で振る舞った科学的な成果があったとして、それはそもそも共有財産とされるべきもので、欧米が独力で開発した物を施したかのような言い方はおかしいのではないか、といえます。
ダイアモンドは評判がいいですけど、僕はおかしいのではないかと思います。
欧米が覇権を握れたのは戦争を繰り返して兵器の性能を上げて、それで周囲から簒奪したからでしょう。そのことを避けて、晦渋なロジックを使って正当化している書物のようにしか思わないんですよね。全く読んでいませんが。
「知の逆転」のテレビ版を観ましたけど、エネルギーが枯渇するので節制しなければならない、というような月並みなことしか言っておらず、しかもそのような展望は再生可能エネルギーの展望を観たときに怪しいようにも思うのです。もちろん節度は極めて重要ですが。
マックス・ウェーバーも日本で欧米以上に読まれているそうですが、あれもこういった簒奪の成果を、プロテスタント的な勤勉さが良かったと筋の通らない擁護をしたものでしょう。
日本では欧米以上に、欧米の近代を正当化する書物が売れているように思うのですが、それは現在日本で主導権を握っている人たちが西洋の学問を自らの基本に置いている人たちであるからでしょう。
そういったものを取り入れつつも、明治以降の名誉白人意識を捨てないと、こういった日本の伝統的な人権の成果や、その文化の優れた部分を、自分たちのものとして生かすことができるようにはならないといえるでしょう。
福島第一で非常用電源をアメリカでのトルネード対策そのままに地下において津波で水没する、ということもありましたが、このように日本の風土に合わせて海外の技術を咀嚼するということもできません。海外の建築技術をうまく日本化した法隆寺を建てた飛鳥人に遠く及ばない。
そして、こういった従来の思考形式はネット右翼の思考の原型になっており、政治を中心とした、現代の日本の課題の核心にある事柄であるといって間違いないと思います。
文章に戻ると、あと監督は成長できないのでつつましやかな生活を大切にしていかなければいけない、といった考えのようですけど、これは私とは違いますね。脱原発を軸に強力に成長していかないと日本の将来はないと思います。もちろん生活の本当の質の向上もその中で重要になってきますが。文化的な向上をしませんとこれから世界で需要があるクオリティの高い商品は作れませんからね。
人口も少子化対策をして維持をしてさらに増やしていくをしていくのが良いと思います。
今の日本の人口減少というのは日本列島の大きさを基準にした自然減というのではなくて、若者の子供を産めない生活環境やその生命力を削ぐ社会構造にあるとおもっています。なのでそのような理不尽な状況の結果減っているということが重い意味を持ちます。それは改善されなければならないのです。
過疎の村などを観ても、日本には本来生かせるポテンシャルが多いと思います。地方を重視する政策がそういった中で鍵となるでしょう。
あと領土問題についても、このような解決方法は現状では現実的ではないと思います。
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