「38布袋坐禅」は長い縦棒が勁く引かれていて見事。真摯な態度が絵から滲み出ています。
燭は常に剪るに随って輝きを増す、心は向かうに随って明を添う。
という賛の漢文のリズムも美しいです。
カタログによると、ポストモダニズムの晦渋な理論を展開してギッターコレクションの人が白隠の絵は賛をを読む必要はない、と力説していたのだそうですが、この人は元々賛が読めないのだとの事。ギッターコレクション展でコレクション主が語るところによれば、日本語はあえて勉強しないことにしているとあって、美意識が優れていればそれも一つのあり方なのかな、とも思ったのですが、こういう風に無理矢理正当化するのはいただけません。やはり賛は非常に大切です。そちらに引きずられすぎてもいけませんが。
チラシにも大きく刷られている「布袋吹於福」は雪村の鉄拐仙人のような煙を吹いている絵で、実に寛いでいます。肩も股関節も実に柔らかい。このフロアの後の作品には、かなり厳しい戒めの言葉を添えたものが多くみられますが、この周辺の絵のように、良い意味で快楽的なところがあることを踏まえなければ、偏った認識になる、というよりむしろ危険といえるでしょう。
大洲藩の加藤という殿様に乞われて描いたらしく、この藩の殿様は盤珪さんとも関わりがありますから、そういうのが好きな人だったのでしょうね。
明治の皇室に献上された美術品ですとか典型的ですが、権力者へ贈る作品というのは隙の無いものになりがちで、そういった中で、この作品ですとか、北斎の鶏の足に墨をつけて話した逸話などは、面白いですし、当時の芸術家と権力者の関係も偲ばれるのではないでしょうか。
「お多福粉引歌」は人の日常に対する視線が感じられる作品で、いわゆる「動中の工夫」といった考えとも関係があるでしょう。こういうものを描く事自体に市井に溶け込んでいった白隠の生き方が感じられます。
「福神見温公語」には子孫にはお金を残しても本を残しても仕方が無いので、陰徳を積んで残しなさい、という司馬温公の言葉が書かれていて、白隠の重視した教えだったようです。梅屋庄吉の生き方とかもこういった江戸時代の人々の考え方との関係もあるのかもしれません。
自然に儒教的な言葉を書き込むところに、当時の自然な習合具合が感じられます。
禅家的視点から言えばこの陰徳もあくまで「無功徳」であって、そういった認識を経てもう一回ひっくり返った「陰徳」であることを白隠に代わって付け加えておいて良いと思います。
七福神を描いた三幅対では毘沙門天の代わりに「鍾馗」が描かれているのが特徴とのこと。勝手なイメージでは毘沙門天が物理的な戦いに霊験がありそうなのに対して、鍾馗は魔除けっぽい感じがするのですが、そっちのほうを重視したということでしょうか。
いや、毘沙門天にも精神的な意味はありますから必ずしもそうとはいえませんか。なんとなく、プラスの方向に突き抜けていく毘沙門天に対して、地味にマイナスを退治していくイメージが鍾馗にはあります。
「関羽」を描いた作品も三作も出ていて、鍾馗は関羽をもとにした神様といわれるので、そもそも関羽ファンなのが投影しているのかもしれません。
解説によると中指と薬指を曲げる印相が充実した作品のサインであるらしく、この三作はいずれもそのようなポーズで描かれています。
なんとなく人それぞれが体質的に好む印相があるもので、白隠の場合はこのポーズなのでしょう。
「51鼠大黒」は白隠76歳の時の作品らしく、ねずみ年ではないのに、と解説にありましたが、お伽草子などによくあるねずみの形で、そういったものを下敷きにしているのでしょう。
「越後三尺坊」は当時の日除けの神様だったらしく、新しい神様で、白隠はとても重視していたとのこと。
なんでもほかで聞いた話によれば、江戸時代は新しい神様が出ては消え、もしくは信仰を集めて根づいていったらしく、私なりに言えば、神様戦国時代と呼べる様相を呈していたといえるでしょう。この神様もそんな中で成功した神様だったようで、民間信仰でも何でも自然に取り込むさまに白隠の仏教の雰囲気が感じられてきます。
恐らく人々の願いが先にあって、それをぶつける対象として創作されたのが神様なのでしょう。その願い自体はとても純粋なものなので、その対象とされる神様にも肯定的な評価を下すとともに、自らも祈りを加える、といった感じのスタンスなのではないかと推測。
「渡唐天神」は菅原道真伝説に取材した白隠最大の作品らしく、各処に文字が入れ込まれていて構成されています。この前の尾張の嫁入り道具ですとか、鈴木春信の頃の暦ですとか、そういうのが好きな時代ですよね。
「毛槍奴立小便」は奢侈にふける大名を揶揄した作品らしく「富士大名行列」は仏教の真理を象徴する富士に気が付かない大名行列が過ぎていく図で、痛烈な社会体制への批判、とここぞとばかりに解説が褒め称えていますが、仙厓さんなどにも武士を揶揄したものは結構あり、禅僧として当然の題材とも言えるでしょう。反体制、といういいかたより、法に気付かない嘆きの方が先立つような気もします。江戸時代は近世以前としては海外と比較しても優秀なシステムであったことを前提に観る必要はあります。むしろそういった絵が公に創作可能であった事に注目するべきでもあると思います。
絵の中には飛脚も描かれていて、後ろ足が高く上がっているのが印象的。
「一富士二鷹三茄子」は庶民に乞われて描いた図とのことで、教えを説かない俗な画題に意味を持たせるために解説が苦しんでいる雰囲気が感じられるのですが、「正人邪法」といいますか「霊亀尾を引く」といいますか、それなりのお坊さんが書いたものは、意味があろうがなかろうが、それなりにその力量が作品の中に自然に込められているものであるという解釈で観るのが良いと思います。
ただこの作品に関しては、富士が雄大で、やはり仏教的に感じさせるところはありますよね。
「いが栗」は本来無一物といってろくに修行しない人達を戒めたもの。ここら辺は誤解されないように道元ですとかも「道元 「小参・法語・普勧坐禅儀」 <全訳注> (講談社学術文庫)」(大谷 哲夫 (著)) などで誤解されないように丁寧に説いています。
いが栗のように自然にはじけるものでも外側からつぶてを投げつける必要はある、という内容で、自然性にも配慮して、悪い意味での修行主義に陥らないような配慮もあって禅画としてバランスが取れています。
「鉄棒」は鉄棒を恐れるやつほど極楽にいけるぞ、と書かれていて、注意一瞬怪我一生、ということですね。そしていざという時に怪我をしないためには日ごろからの精進が欠かせないと。
「六祖唐碓」は池大雅の絵に白隠画賛を書いたもの。白隠は大雅と親交があったらしく、主催者はどうも、そこから影響が京画壇に伝わり、若冲・芦雪らが輩出される起爆剤になったとの説を立てたがっているもよう。白隠の絵の力を目の当たりにすればそういった影響を考えたくなるのは良く分かります。
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