フィギュアは羽生選手が勝ちましたけど、強いですね。最初のサルコウもむしろ回り過ぎてしまったぐらいだったのではないでしょうか。しっかりしていると思います。
日本の選手は、全般的にフリーでうまく調子を上げましたよね。
荒川強啓さんのラジオでは、北丸雄二さんと宮台真司さんで特定秘密保護法について。
一度も民主主義が無い、頭を使わないからこうなるんだ、とのことですけど、やはり安保闘争のころと比べてもきわめて退化しています。退歩である、ということを強く自覚するのが非常に重要だと思います。一度もないというのは、極めて扁平な認識に陥るのではないでしょうか。
宮台さんは、こういう法案を成立させてしまった大衆をかなり馬鹿にしている雰囲気。確かにそういう面もあるのですが、みんなの党を支持していた宮台さんが言うのも、どうだろうと思います。そのことについては触れませんでしたけどね。
それにしても、悪い意味で大衆を信頼していない部分もあるのではないか。それは前に言った「引き算の民主主義」(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/53538266.html)
という発想がないことと、小室直樹の直系でエートス論(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/53569373.html)を受け継いでいる事が関係していると思います。この二つは考え方として間違っていると思います。
本日の天声人語には「「決められない政治」に懲りて自民党に衆参で多数を与えた。」とありますが、民意の捏造をこの期に及んでもするのか。一番NHKが積極的に言っていた言葉だと思うのですが、(おそらくは経産省を筆頭に)再稼働を決めないことに業を煮やした原子力ムラが張ったメディアキャンペーンであるといえます。
責任を痛感して、反省して、再発を防止するのが筋ではないか。
いつまで自分の造り上げた幻想の中で、うわごとを呟き続けるつもりなのでしょうか。
「「和食」登録に奔走、京都老舗料亭「菊乃井」主人「長かったが、これからが出発」」(http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131205/waf13120508110004-n1.htm)とのことですが、このニュースで必ずといって良いほど出てくる村田吉弘さんは、米食文化を見直すべきだ、といっていて、それはその通りなんですけど、現代のライフスタイルであると、かつてのような肉体労働はしないので、米食だと栄養過多になるところがあるのは事実だと思うんですよね。
和食も米食を見直す、とだけ言うのではなくて、新しいライフスタイルに合わせた和食を開発していく必要があるのではないでしょうか。このご主人はかなり和食を変えていく方の人なんですけど、変える部分と守る部分がどうなのかな、と思う時はあります。
11月23日のbeでは夏野剛さんが、食品偽装は個より集団を重んじる日本文化に責任があると主張。
日本は個より集団を重んじる文化である、と簡単に言われますが、最新の研究で、そのよりどころとなる近世の日本人の組織における営為について、従来のイメージとはまったく違う実態が明らかになっています。
そのような研究を踏まえた上でなお日本は集団を重んじる、という結論を出されるのなら、それはそれとも言えますが(かなり無理がある)、現代の学問的な状況から言うと、集団主義、とだけいって、皆に従来の説による集団主義を想起させるのはそれだけで間違っているといえます。
日本はそもそも、汚職や犯罪が少ない国であり、正直さに特徴があるのです。その文化性・倫理の高さは幕末・明治に訪れた諸外国の人からも賞賛されています。
そのようなものが失われているのではないかと論じるのが、正しいといえます。
他にも終身雇用を批判して、雇用の流動化を主張していたりするのですが、そういうのが必要な部分があるのはともかくとして、流動化にかこつけた人材使い捨ての風潮を批判しなければ(経団連的な)重大な片手落ちであるといえるでしょう。他にも、残った人間が本当に能力で残ったのか、とか、有能な部下を上司が嫌うのようになるのではないかとか、簡単に切られるので会社の不正を正せないのではないか、とか、社会が逆にリスクを取らなくなるのではないか、といった重要な問題は議論されないのです。
私の記憶が確かなら、この人は震災直後に、短期的な電力供給と長期を分ける必要がある、と称して原発再稼働を主張していましたが、結果は、原発なしでも余裕があったことが明らかになりました。そういった総括をしないで、こういうところでのうのうと文章を書いていて、許されるのですかね?
ぐぐると他にもこの人の非科学的な原発推進論がいろいろ出てきますが、酷いものです。それこそ能力ではないところで紙幅を得ているのではないでしょうか。
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