行って参りました。
微妙に女性が多いように感じましたが、やはり応為がタイトルの展覧会だからというのがあるのでしょう。
靴を脱がなくても入れるようにしたのが、当美術館の改革点。逆になんで今までスリッパを使っていたのか、ということになりますけど、おそらく周囲が土っぽかったのではないですかね?今でも明治神宮はありますけど、靴がきたなくなる機会は減ったので、妥当な改革と言えましょう。しかしすると、今度は床の間のコーナーに上がり辛くなるのが考え物。全体をコーディネートするというのは難しいものです。
「作者不詳 市村座場内暫の図 紙本一幅 18世紀前半」は歌舞伎でも最もといって良い有名な場面。透視図法を使おうとしているのですが、消失点が存在していないとのこと。
花道からちょうど出てきたところで、観客は舞台やら花道やら明後日やら、いろいろなところを向いています。非常に狭い小屋で、こういった場所での花道の3D的な迫力はすごかったんだろうな、と感じさせます。
太田記念が良品を多く所蔵する宮川派の「宮川長電 吉原格子先の図 紙本一幅 享保ー寛延頃」は、格子の中に入っている遊女を描いたもの。檻に入っているみたいですが、逆に外の人間を遊女が見定めているんだな、と感じさせる作品。
応為の作品は世界的にも10点ぐらいしか残っておらず、展覧会のタイトルになっているにもかかわらず出品作品は「葛飾応為 吉原格子先之図 紙本一幅 文政中期=嘉永(1824-54)頃」のみ。
80代以降の北斎の作品の中には実際には応為が描いたものがかなり含まれているとのこと。展覧会では触れられていませんでしたが、ちょうど、今話題の「ゴースト」であるといえるでしょう。
技倆は極めて高く、北斎の次代の画家としての洋風表現をこなす自在さがあります。この絵でも、光源を踏まえた陰影が正確につけられているとのこと。ただ、この光の当たり方だと本来みえるはずの芸者の顔だけがなぜか見えず、ミステリアスな雰囲気を醸しています。
こういった描かれ方も、自身を署名を描きながらも、日頃ゴーストに徹している自身が投影されているとも解釈できるのかもしれません。
「葛飾北斎 諸国名橋一覧 文政中期-天保頃」は橋を好んだという北斎が、想像力をフルに活用して様々な橋を描いたもの。実物の北斎が描いた太鼓橋をみると、構図的にこの緊張感にほれ込んだんだろうな、と解るものがあります。
今回多く出品されていたのは昇亭北寿の作品。
マイナーで、どうもあんまりうまくは観えない絵師ですが、洋風表現の摂取に積極的で、透視図法や陰影表現を使用、ということでクローズアップされています。
「司馬江漢 西洋風景図 絹本一幅 寛政頃」という、日本画風の峡谷の画題のさきに洋館を描いた作品が肉筆画コーナーにはありましたが、どうも北寿は江漢の後継者、といった雰囲気があると思います。
木版で洋風表現をやると、何か寂しく観えてしまうのが、この画家をマイナーたらしめているのかもしれません。
「昇亭北寿 上総九十九里地引網大漁猟正写之図 文政頃」の解説によると、明色・暗色で影を表すのを始めた絵師らしく、ズバリとはわからない解説ですが、おそらく広重などもやっている、山をブロックごとにいろいろな色で塗り分ける手法のことでしょう。これはピカソのキュービズムへの影響が指摘されている描き方で、さらに元をたどれば、北寿に行きつく、ということになるのかもしれません。
あれ、実は偉大な絵師なんですかね?
「歌山国貞(三代歌川豊国) 月の陰忍逢ふ夜」は国貞が珍しくも明暗を劇的に使用したシリーズ。北斎の光線表現などの影響もあるのかもしれません?
浮世絵の中でも屈指で有名な「歌川広重 名所江戸百景 猿わか町よるの景 安政3年」は夜を卓抜に描いたことでゴッホらに影響ををあたえたものであり、透視図法を使った傑作でもあります。ほかにも透視図法を使ったものはありますが、真ん中に消失点を打ちがちな類作に対して、やや画面の端にずらされているのが、広重の粋であって、妙味なんだと思います。
「歌山国芳 高祖御一代略図 相州竜之口御難 天保前期頃」は日蓮ですけど、そういえば、国芳の宗派はなんなんですかね?北斎とかはとりあえず日蓮宗だったといわれますよね。
「歌川国芳 高祖御一代略図 九月十三夜依智星降 天保前期頃」は天の月天子に加護をするとかしないとか日蓮が掛け合っている図。日蓮宗は多神教なんですかね?そういえば北斎も魔よけの獅子を筆頭にいろいろ描いていましたよね。最近ではこの流れを汲んでいると主張している某新興宗教では、神社にも参拝しないと聞いたのですが。
「鳥文斎栄之/山東京伝賛 吉原十二時絵巻 享和元年」は長い大作。こんな立派なものも持っているんですね。
陰影の表現が総覧できた、微妙な感性を揺さぶる展覧会でした。ありがとうございました。
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