一番面白かったのは、モーセが王位に就かなかったことが、人の上に人が立つことを拒否したと、解説されていること。どうもファラオ的なあり方を拒否した民主主義の元祖のように思われているようであることと、モーセの十戒が法治主義の元祖のように思われているらしいこと。
ここら辺がギリシャと共に聖書が西洋思想の源流と位置付けられているところなのでしょう。
物語を聞いただけではわからない、物語の解釈による歴史的位置づけを知ることができました。
しかしながら、その解釈が本当に正しいのか、という疑問があります。
また、一昔前に作られた奴隷を酷使する古代エジプトを描いた映画が妄想の産物で、実際は温和な統治の中でファラオと民衆の関係は良好であったことがわかってきています。ああいう妄想は旧約聖書由来であるのだなと感じました。
この前の新聞のギリシャについての記事では、民主主義は何かを犠牲にして成り立っているのではないか、と問いかけられていましたし、しっかりしたリーダーがいないよりアナーキーに近い状態は混乱をもたらすこともあるでしょう。
その時の技術水準や歴史的な状態や、犠牲を含めて、本質的な意味でどちらが優れた政体であるかは断じることはできません。イギリスの清教徒革命などはここら辺のバランスを探った歴史だったといって良いでしょう。
自分たち以外を王の専制と無理やり位置付けて非難するやり方は、後年のギリシャ人の思想につながってきます。
こういう思想がヘレニズム的な偏見につながってはならないですし、どうも聖書学とそれを基礎とする西洋世界はまだそういった偏見から抜け出せていないのではないか、という雰囲気も感じられました。それは西洋世界がさまざまな犠牲をもとに成り立ってきたことに対して、あまり見ようとしない心と関係があるのではないかと思うんですよね。
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