は元宮崎県知事が来ていた関係か地方の創生について。財源移譲もなしに、言うことを聞いたら金をやるという方式で、沖縄での500億円を負けた瞬間に取りさげたのは象徴的というはなし。金権選挙をやって何も恥じらいが無い状況で、法律的に違法と断罪され捕まらないだけ、という感じです。
金子さんは最近こういった諸々の問題を無理やりアーレントで解釈するんですが、それはどうか。
アーレントの同調圧力との葛藤の話は、孔子の「狂」と主題は同じで、特に創造性を感じません。また、それを克服するための体系が無く、貧弱。
そもそも生理学や脳科学がこれだけ発達して人の決断のメカニズムが明らかになってきつつあるときに(行動経済学などはその一端でしょう)、その判断の巧拙をすべて単にその時々の思考にのみ負わせるのはナンセンスです。
つまり、生理学的アプローチがまるでないという点について、アーレントは没身体性的な哲学ですよね。
以下の段落は一カ月くらい前に書いた文章ですが、アーレントの「凡庸な悪」は日本の「無責任の体系」を説明する時の論理に非常に似ているんですよね。もしかしたら影響があるのかもしれません。人ではなくシステムに過剰な責任を負わせて個人の責任を問わない思想の東西のそれぞれの代表なのではないかと思います。
どちらも一種の「疎外」を問題にしていますが、疎外に負わせる責任が過剰で、最後は人間が重要であるという覚悟が感じられません。
そしてこういった考えを取る背景には、金子勝さんの経済学的な立場が深くかかわっています。
「新・反グローバリズム――金融資本主義を超えて」((岩波現代文庫) 金子 勝 (著))の237ページでは「強い個人の仮定」を激しく攻撃し「弱い個人の仮定」こそ必要であると唱えています。
つまり弱い個人を基軸に据えているわけで、個人個人が成長することで社会問題を解決するという選択肢が最初から外されているのです。
基本的にほとんど合意できる部分ばかりの共著者と出した「失われた30年―逆転への最後の提言」( (NHK出版新書 381)金子 勝 (著), 神野 直彦 (著))でも神野さんの重視する「知識社会」という言葉に容易に同意していなかったように記憶しています。似たようなことを金子さんが積極的に言うこともありません。
そうなるとこの前の生命倫理の話しでも仕組みを整備する以外にやれることが無いから、それで行っちゃえ、という発想になるんですよね。かなり危ういことと言えます。
仕組みを作るのも運営するのも人であるということなども考えれば何重にも困難を抱えていると指摘せざるを得ません。
どんな分野でも外側からタガをはめるだけでは限界があるどころか、とんでもない方向に行ってしまいます。
教育に提言をして強い個人を養成するのではなく、凡人が見方の角度を変えたり、ちょっとした努力で「凡庸な悪」を克服していくような、アーレントの理論と親和性があるのです。
これはかなり危険なことだと考えています。正しい方向性と真逆の考え方だと思うからです。
(また、実はこの考え方は人間を平準化して行くグローバリズムの思想が内包しているものであることを指摘したいと思います。
これは戦後の貿易立国路線・グローバリズムを文学の側面から支えた司馬遼太郎さんにも、同じような思想傾向があります。(イデオロギーの否定。文化による向上に否定(
https://shakaitsuugan.work/2010/05/03/50386500/
)。など)
文化・個人の特殊性を均しての排除してしまうのです。)
かといって丸山眞男的な歪んだヨーロッパ像から抽出された近代的自我を持つ人間を皆が目指すのが良いとも思っていません。
ヨーロッパは実は非常に文化も日本に比べて非常に重視しているんですよね。
文化を中心に据えた、個人の確立と共に情緒・共感・智慧を養う教育による、日本に住む人たち一人一人の飛躍こそが、グローバリズムをも超えた社会の突破口であると確信しています。
そしてそれは過去にかなりの程度達成されていたと考えています。
司馬遼太郎さんは江戸時代に個人が確立していたと指摘していましたが、その指摘を俟つまでもなく、江戸期以前の日本の良質な部分を現代に生かすことこそが、今の日本にとって急務なことなのです。
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