「(人生の贈りもの)わたしの半生 社会学者・上野千鶴子:10 66歳」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11741582.html)は上野さんはともかくとして
結局、「女がいままでタダでやってきたことにカネを払う気はない」という、オヤジの意識が阻んでいるとしか思えないのよ。
というのはその通りでしょう。
連載中でも示唆されていましたけど、団塊の意識が戦前の軍隊を引きづっているという意味で固陋なのが問題でしょう。
いま、意思決定の面で社会の主導権を握っているのは団塊です。その真面目が試されている場面だといえるでしょう。
そして一方は楢山節考的な政策で高齢者にも金を出しません。
前世代の「孝」も受け継がず、女性に対する認識は昭和初期でストップ。そんなすっからかんな酷い世代だったと総括されるのだろうか。
「(人生の贈りもの)わたしの半生 社会学者・上野千鶴子:1 66歳」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11715215.html)は
「アグネスさんは「歩く中華思想」とかひどいバッシングを受けて沈黙してしまったけれど」
とのことですけど、やっぱり中国人は中華思想を持っているという差別があったんですね。
やれやれと言う感じで特に書こうとは思わなかったんですが、
「(人生の贈りもの)わたしの半生 社会学者・上野千鶴子:8 66歳」(http://www.asahi.com/articles/DA3S11732748.html)は
――結婚しているフェミニストは信用しない、とも書いていますね。
自分の性的自由を放棄する契約関係に自ら入り、契約を破ったら相手を非難する権利を持つなんて、想像もできない。まったく理解できない人間関係ね。
とのことですけど、身体的な触れ合いや心の交流を重ねればお互いに愛着が出てくるのは当たり前のことじゃないですか。そしてそれが裏切られた時の反動は大きい。
身体性という要素が欠落しているのがやっぱり近代思想の弱さだと思う。
そして前近代的だと思われていた思想に、意外とそれが(時に直観的に)盛り込まれているんですね。
――年を取ると介護とか病院の保証人とか、いろいろ問題が出てきますが。
友達でいいじゃない。保証人を要求されても「家族はほかにいません」で突っぱねたらいいのよ。看取(みと)り看取られる関係も、友達同士でじゅうぶんやれる。私は年下の友人を養子縁組したっていいと考えてる。期間限定の、選び合う親子関係、血縁よりいいかもよ。
の「期間限定の、選び合う親子関係、血縁よりいいかもよ。」というところも、身体的な繋がりを重ねているからこその人間関係というものにまったく注意が払われていない考え方だと思います。
家族を契約的に解釈しすぎていて、身体的な要素に注意が払われていないのです。
それはある種にニヒリズムでもあります。
(血縁ではなく養子でも、触れ合えば血縁以上になるという身体性を重視した考え方だという解釈も成り立ちますが、どうも人生の最終局面での養子を指しているようですし、上野さんのレトリック・文脈から言うと血縁やそこからくる人生を共にしてきた積み重ね、という身体性からの離脱と解釈できると考えます。)
――同窓会などにも行かないのですか。
一切行かない。興味もない。だって何十年も会わなかった人といまさら何をしゃべるの? 私は、手間ひまかけてメンテナンスして続いてきたものだけが、友情だと思ってる。続いてきたものには、続くだけの理由があるから、それは大事にしてますよ。
では、旅でふらっと会って、今では会うこともないけど、その出会いを大切にしている。なんていう人間関係は否定されているのでしょう。
婚姻ということを一から考え直すのは有意義ですが、これではやっぱり思想としてバランスを欠いています。真実ではないので社会的な広がりを欠きます。
一つの分野の第一人者の方で影響力が大きいので、あえて苦言を呈しておきたいと思います。
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