「ラジオなんですけど」でいうには、この日は久米さんのものすごく長い戦争特集があるのですが、オープニングが2回あるそうで「何気無いオープニング」とのこと。
TBSといえば「Nスタ」も2回目の何気無いオープニングがあるのがわからなかったんですよね。いつの間に堀尾さんが退出しているのでしょうか!?
おでんの話しでは、久米さんはちくわぶが嫌いとのこと。おいしいと思うんですけどねぇ~。
その戦争特集の「戦後70年 千の証言スペシャル「私の街も戦場だったII 今伝えたい家族の物語」」は特攻特集を。
桜花は本当に気持ちが悪い機体です。
こういうのにイメージをダブらされて、寄生された、日本の花見文化は被害者です。
戦争末期になってくると空襲を避けて、あらゆる施設が地下に潜っていって、地下のシーンが多く「宇宙戦艦ヤマト」のイマジネーションはこういった所から来ているんだな、と確認しました。
特攻隊員には笑っている人が多く、館長みたいな人が「皆さん凛々しくて」と言っていましたが、ああいうのを凛々しいと表現してはいけません。
やっぱり死ぬ直前になるとテンションが上がってくるのだと思います。
家族のために死ぬんだという思いを持っていたという特攻隊員の証言で、青年の純粋無垢な心を利用した、とナレーションが流れましたが、そう思っていたといういうよりそう思い込まざるを得なかった、というのも実態のように思います。
「空襲の経験、きちんと映画に 「火垂るの墓」高畑勲監督」(http://www.asahi.com/articles/ASH846KG4H84UTIL058.html)の
最近の戦争映画には違和感を感じるものもある。「愛する人や家族を守るために戦う」なんて、戦時中は誰も言っていなかった。「泣ける」「感動した」という共感を呼ぶための欺瞞(ぎまん)であることを見る人たちは見抜いてほしい。
という証言も参考にするべきです。
特攻を食らった側の人への取材では、日本兵を助けた時に財布から家族の写真を発見し、相手も人間だと気が付いたと涙を。やっぱりこのような身体的な実感が重要なのだと感じます。
人命が無駄なだけではなく物資もどこまでも無駄です。当たってしまえば相手も自分も死に、更に命が失われます。
ようするに何もやることのなくなった軍部の手持無沙汰だった、と感じます。
最後はスタジオで「戦争はあってはいけない」ということで反戦のメッセージで終わりましたが、今は否応なく仕掛けられる可能性があるという、という事態に若い人は直面している?わけで、これだけでは反感も招きかねない、というのが実際の状況ではあります。
そこで久米さんが「なんで降伏が遅れたのか」と最後につけたしたのは当然ながら欠かせなかったこと。
戦争戦争、といわれますが、話題になるのはほとんど最後の日本人がおびただしく死んだ時期のことで、戦争を問うというよりも降伏の遅れを問う、という題を掲げた方が実態に合います。
降伏しなかったのは要するに中枢が責任を問われるのが嫌だったわけで無責任なのですが、無責任と命の軽視と戦争を徹底的に排除していく、ということが重要なことだと思います。
こういう戦争の責任者たちが戦後も生き残り、子孫はその遺産でのうのうと暮らしているばかりか、社会の中枢に食い込んでいることを重く捉えなければなりません。
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