ヨーロッパの道徳は「容赦ない社会」が生んだ「平等」も「人権」も、次善の策にすぎない その2


カントは、道徳的善さは、いわゆる社会的悪からの解放によってではなく、いわゆる社会的善からの解放によって実現される、という(一見)とてもヘンな倫理学を提唱しているのです。

は老子の「大道廃れて仁義有り」と同じ意味であって、善を否定する仏教・禅の態度と同じものといえます。

キリスト教を知っていればわかるのでしょうし、東洋思想を知っていればわかりますが、そうでない人には呪文としてしか実感できないでしょうね。

日本人にこの話を「ヘン」だと思う人がいれば、その水準の低さを嘆かなければならないと考えます。

そして著者の中島義道氏にしても日本の哲学者としてそのように話を展開していけないのはおかしなことだと思う。

中文学者の加藤徹氏は大学で哲学の講義を受けたときに教授が、日本に哲学はない、といったのを聞いたのだそうです。
私は同じようなことを主張する哲学の本を何冊か読んだことがありますが、カントやヘーゲルが哲学であれば東洋哲学も哲学です。強味や方向性は違いますが。

ただ単に東洋哲学に対する素養が足りないのではないかと思う。

孟子の「革命」の概念をはじめ啓蒙思想に対する東洋哲学の影響は非常に強いものといわれていますが、カントのこういった思想なども、注意深く観て行くと影響が見いだされることもあるのかもしれませんね。

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