またこの本の巷間の河井継之助像・番組と比べた時の特徴は継之助を「武装中立派」ではなく奥羽列藩同盟と共に戦う主戦派として描いていること。
「河井が船で運んできたのは武器だけではなかった。鳥羽・伏見の戦いで敗れた会津藩と桑名藩の兵各百余名を乗せてきた。」(47ページ)
とありますけど、このようなことをすれば、新政府軍から敵とみなされるのは当然です。むしろ戦う気満々といえる。
「峠」では奥羽列藩同盟が長岡藩を味方にするため、兵に長岡藩の旗印を持たせて新政府軍に戦闘を仕掛け、長岡藩の退路を断ったという筋書きになっています。
しかし良く考えればこの話はおかしい。そんな長岡藩を陥れるようなことをしたら、長岡藩は怒って新政府側につく動きを取るのが普通であるからです。
このエピソードはそうであれば重要であるにもかかわらずこの本にも載っていないし「峠」以外で目にしたことも無いから恐らく司馬遼太郎の創作なのだと思う。
継之助は引きずり込まれたのではなく本質的に主戦派なのだ。
主戦派の河井が恭順派の安田鉚蔵を説き伏せるために
「「武装中立論」といわれるもの」(51ページ)
を河井が秘策として話す場面は出てきますが、
「武装中立論と銘打って書かれたものは存在しないという。」(51ページ)
とあり、つまり史料的裏付けが存在しないということを著者は書いているのだと思う。その場のディベートにおける思い付きであった可能性も匂わせているのではないか。
「峠」は「1966年(昭和41年)11月から1968年(昭和43年)5月まで『毎日新聞』に連載され」(Wikipediaより)ました。
時代はちょうど安保闘争。
その15年前のサンフランシスコ平和条約はまさに長岡藩が置かれたように、日本に冷戦の二大勢力のなかで資本主義側につくのか(単独講和)中立を保つのか(全面講和)迫るものでした。
安保反対を叫んでいた市民運動側の思想にはこの全面講和の思想が流れ込んでいます。
(ちなみに私は単独講和で良かったと思っています。安保闘争に関しては、その運動がアメリカへの過剰な一体化を妨げ、平和国家としてバランスを取ったという意見があるようですね。そうなのだと思う。
加えて共産主義もまったく支持していません。)
種々の随筆からいえるように、司馬遼太郎さんは学生運動であるとか市民運動、加えて共産主義を嫌っていた。(言ってしまえばやはり権力派なのです。)
その司馬遼太郎さんによって、市民がちょうど全面講和的な思想を叫んでいたときに、(全面講和的な)中立派が亡びる物語が都合よく掘り返されるのがずっと以前から不思議でならなかった。
「峠」は継之助を中立派に仕立てて、全面講和的な思想を持つ人たちにあて付けた物語だと思うのです。
継之助の発言の一部を拡大し武装中立論者に仕立て上げ、安保闘争を展開する市民への掣肘としたのではないか。
(「峠」のWikipediaでも創作と史実の違いとして、全面的に否定するではないにしろ、指摘されていますね。しかし書かれた資料が存在しないというのであれば「河井継之助」のWikipediaの「モンロー主義」云々は何をよりどころしているのだろうか。)
しかし確かな知識を持って河井継之助の評価の変遷を分析する仕事は私の手に余ります。
ここに仮説として提示して諸賢の検討を俟ちたいと思います。
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