(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO21762490R01C17A0MM8000/)と今「蜘蛛の糸」が話題になっていますけど、お釈迦様の話であって、冗談でも決して当てはめてほしくないですね。
この説話は子供のころから何となく聞いて来たけど、今聞くと違和感が。
お釈迦様はこんなふざけた糸を垂らしたりしないと思う。むしろこれはキリスト教的な審判の思想ですよ。
と思って調べたらやはりなんとアメリカの作家で宗教研究者のポール・ケーラス氏の作品の翻案なんですね。それはキリスト教的な感じがするわけです。
こういう海外の作品の翻案は漱石にもみられるそうですけど、そういうコピーのような作品を(それとはしらせずに)日本の古典として崇めるのは疑問に感じます。
戦前の廃仏毀釈の時代の文学だなという気がしますね。
戦前当時は良いことをすると良いことがあるといった感じの教誨的な説話が政府の方針によって受けたらしい。結局戦前の感覚から教育がはみ出していないことの証左でもあるといえるのではないか。
毘盧遮那仏や不空羂索観音で表されるような理念がお釈迦様の理念です。
子供に仏教理解に誤解を与えるので教科書で取り上げるのは避けてほしい作品です。
(確かに浄土系仏教には近いところもあって、それはやっぱり浄土系がキリスト教に似ているといわれるゆえんでしょう。
しかしあらゆる人を救う阿弥陀如来の性質を考えるとやはり違うといえる。
(今調べると浄土宗や浄土真宗は地獄の存在をあくまで教えの中で説いているらしい。つまり教えの中で例えとして使っているような状態なのでしょう。)
平安時代までの浄土信仰にみられるような地獄の概念は近いように感じるかもしれません。
しかしそれでもあくまで裁きをするのは閻魔大王であってお釈迦様ではないところも含めて仏教だということです。
キリスト教だとミケランジェロの「最後の審判」にみられるようにキリストが直々に裁いていますけどそういう宗教ではないということです。
つまりは部分的にこの説話に近そうな仏教があるようでいて、それもやっぱり違う、というのが私の結論です。
(すごく簡潔に言うと仏教においてはお釈迦様はこのように上から目線の存在ではないので、その部分にとても違和感があるのです。))
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