前記事を書く前に、メモ的にまとめていたものが以下の文章です。内容的に被りますが一部違います。
AmazonPrimeMusicにたくさんカラヤンが入っていたので、普段ほぼ聴かないこの指揮者の音源をまとめて試聴。
ベートーヴェンとかは、、、、やはり合わないですね。
結局やっぱりトスカニーニ的なのだと思う。
宇野功芳先生とは何だったかというと、一つに、カラヤンなどに席巻されて、カラヤンが私淑していたトスカニーニ的な指揮がクラシックだと思われている中で、フルトヴェングラー、もしくはそれ以前のトスカニーニ出現以前から続くクラシックの美意識を守り伝えた人だったのだと思う。
それは指定のテンポありきではなく、音楽の呼吸に合わせた芸術だ。
宇野先生が声楽科出身なので、音楽の呼吸に合わせない演奏を直感的に嫌ったというのもあると思う。
そういうことで言えば結局小澤征爾もトスカニーニ風なのだと思う。
その方向性に音楽の楽しさを見出している私としてもやっぱりカラヤンの音楽は聴いていても音楽の呼吸を無視している違和感に覆い尽くされますね。
また、いわゆるアダージョカラヤン、ベスト盤が小品で埋め尽くされているのが、ほかのクラシック指揮者にはあまりないことですね。
いわゆる昔ながらのクラシックファンが交響曲などを聴くのに対して世間一般のクラシックのイメージは小品によるものだと思う。それを作ったのがカラヤンなのかなと思いました。
その指揮はきれいで豪華であり、なんとなく聴くにはよいけど、やはり曲を深くえぐる内容には欠けていると思う。
「クラシックのトスカニーニ的演奏」という種目ではカラヤンは優れているかもしれませんが、その範疇を超えるものではない。
宇野功芳先生はチェリビダッケをカラヤンのコインの表裏と評していますが、結局チェリビダッケもトスカニーニ的なんですよね。
そのテンポや解釈は自分の作り出す音響に奉仕させる観点から決められたものであり、恣意的だ。
つまり速くドライブするのがカラヤンで遅くドライブするのがチェリビダッケということです。
トスカニーニは楽譜に忠実というスローガンですが、それに惑わされずに本質を観ていくとそのようなことが観えてくるといえます。
スローガンであるというのはやはりトスカニーニが日常的に楽譜を変更していたのが証左です。
彼もまた彼の追随者のように自分の音色に音楽を染めることを考えていた。だからこその改訂であるといえます。
「楽譜に忠実」であれば作曲家について余計なことを考える必要が無いのです。自分の音楽だけをやればよいということになる。
「楽譜に忠実」とは演奏者中心の演奏法で、解釈して丹念に音楽を彫りこんでいく演奏法は「曲に忠実」な演奏法なのだ。
結論としてはやっぱり将来的に、クラシックは曲の内容を深く抉るように演奏されなければ真の面白味・深みは出てこないし、鑑賞する方も面白くないと思う。
私自身もクラシックの非トスカニーニ的鑑賞法の楽しさと奥深さを伝えていけたらなと思います。
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