2017年4月23日大竹まこと ゴールデンラジオ! ゲスト金子勝(慶應義塾大学経済学部教授) その3

こうやって変わりつつあるのだけど、以前に指摘したように、金子さんは本来個人の能力を改善することを通して社会を改善していこうという考えを持たない人なんですよ。

それはなぜか?それは学問のタコツボ化が原因であると考えています。

金子さんはやっぱり経済学者ですから、あくまで経済理論で社会を組み立てる。

人をより善くする、といったことが重要であるということになると、それは宗教学者であるとか哲学者、倫理学者、教育学者といった人たちの領分になる。

自分で自由に扱える分野ではない。

なので意識的にか無意識的にかそこをバッサリ外してしまって理論を構築しようとしてしまう。

しかし両方必要であって片方だけでは無理なのです。

逆に金子さんがこのような方向性へ進むきっかけになった丸山眞男は思想家に分類されますよね。経済理論ではなく、やはり人の思想に働きかけて世の中を何とかしようという方向にいきやすいのです。

金子さんだけだと偶然だ、ということになるかもしれませんが、他の人でもそういうことが本当によくみられるのです。

たとえば「ヨーロッパの道徳は「容赦ない社会」が生んだ「平等」も「人権」も、次善の策にすぎない その3」(https://iroironakizi.work/2017/02/01/55697954/)で私が指摘した木村草太氏の誤りも、法律の専門家が人文科学が専門外であることが表れた部分と解釈でき、そういう意味で言えば非常にありがちで平凡なものといえるのです。
だからこそ根深くて、自覚的に、真摯に向き合わなければいけないことなのです。




逆に言うと経済学者以外の文系の人は経済学を扱えないので経済学を抜かして社会に対して理論を構築しようとする。

経済的政策によって、社会を明るくしていこうとは言わない。「ゼロ成長社会」を前提としてちまちまやっていこうという論者が圧倒的に多くなるのです。

それはたとえば「「日本はみんなで貧しくなればいい」上野千鶴子氏の発言は何が問題なのか」(https://thepage.jp/detail/20170223-00000011-wordleaf)の上の氏の発言であったり
「(脱・一極集中)格付けに夢中 「成長ないと終わり」か」(http://www.asahi.com/articles/ASJ4P0H3HJ4NPLFA007.html)などで主張されている内田樹氏の脱成長論です。

それが社会を内向きにし、その勢いを削いでいる面は否定できないと考えます。これはかなり危険なことだと思います。

経済学者以外の文系の人というのは世の中のほとんどの文系の人です。人の数が多く影響力が強いのです。それだけの人たちが「タコツボ」の影響によって脱成長論者になりやすいという現状が存在するのです。



本人たちはそうじゃないと強弁するかもしれないですけど、こうやって学者さんたちの意見の傾向を並べてみると明らかにタコツボが観察できるといえます。

タコツボというのは(自覚もされずに)いたるところに偏在しています。
私はこれを「潜在的タコツボ」と名づけたい。それにしたがって従来タコツボといわれていたものは「顕在的タコツボ」となります。またそこに生じるマイナスは「潜在的タコツボの罠」となります。

自分の得意な分野以外の変数をしっかりと評価することが重要です。

自分の得意な分野以外の「変数」を切り捨ててしまいたいという誘惑から逃れることは余程の知性とバランス感覚が無い限り達成できないことだと痛感します。


つまり専門家が自説を社会に対する全体的な提言として発表するときには注意の上にも注意が必要ということです。
政治家を中心に、広く学んだ上で、専門家の話を聴いて全体のバランスを取れる人材が社会にはたくさん必要です。
また専門家自身に社会の各分野を広く見渡す見識が求められているといえるでしょう。

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