は厳しい回。それにしても人がどんどん死んでいきますね。
島津軍はたまたま上方にいて巻き込まれただけで本国から兵を送っていない、というのがまず前提の条件。
西軍が敗走する中、寡兵で戦場に取り残された島津義弘の選択が第一回の選択。この時島津義弘66歳。
スタジオの4人中2人が史実と同じ中央突破を選択。人命度外視の突撃なのかと思っていたのですけど、生き残る合理的な選択でもあるんですね。
普通に逃げると殲滅されることを百戦錬磨の義弘は知っていたのではないかとのこと。また追撃する東軍諸将と家康本陣の間に空間がありそこを抜けることができたとのこと。追撃戦の方が楽なのでみんな島津と正面から当たりたくなかったのだそうです。
敵中に行くと味方に当たる可能性があるために鉄砲を撃たれないメリットがあるとのこと。これと武勇を示す必要性があることを満たした合理的な決断だったのではないかとのこと。
とはいえ「捨て奸」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A5%B8)は本当に人命的にひどい戦法だ。義弘は逃げただけで戦ったのはこれらの兵士ですよ。
義弘は日ごろから兵と寝食を共にし兵たちの忠誠心が非常に高かったとのこと。立花宗茂と同じエピソードですよね。戦国九州を生き抜くための常識だったのだろうか。
磯田氏は小早川軍を蹴散らして中山道を西に行くルートを選択。
これは陣形図だけを見ていれば最善だと思うのですけど、今裏切ったばかりの小早川を素早く敵と認識して、その陣形を把握した上で突破できると判断する判断力が必要でしょう。現場の限りある情報の中では難易度が極めて高い。
あとどれくらい隙間があったのかですよね。隙間がないと通れず最悪家康本陣との挟み撃ちでしょう。
敵中突破を成し遂げ大坂城で人質を回収しつつ薩摩に戻った義弘は家康との和睦を主張するも主戦派の兄で当主の義久に従い着々と国内の城を整備。
これはシラス台地の城ですね。この切り立った構造は薩摩ならではだ。
義久が主戦を主張したのは和睦すると義弘を引き渡さなければならなくなるからではないかとのこと。そうなると義弘は逆に自分のことはかまうなといったということになるのでしょうか。
抗戦できたのは一族に一人も人質が居なかったのが大きかったみたいですね。
海賊行為をして家康の明との貿易を妨害したりもしていたらしい。
遂に家康は折れて島津の所領安堵を約束。
この時面倒なので東アジア貿易を島津に任せてしまったのが幕府にとって後々良くなかったのではないかという話。
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