第4回のゲストは姜尚中さん。キリスト者であるとのこと。
親鸞について良く話されるのでそちらなのかと思ったんですけど、違ったんですね。やっぱり似たところがあるということでしょうか。
ヨブ記を取り扱う本回。
不幸が襲うところまでは極めて生々しくリアルですけど、悔い改めいきなり財産を回復するところで、ご都合主義になった感じが。
この2重構造がキリスト教のミソなのかなと思います。
スタジオでの突込みもそこに集中。こういうことお前たちは考えているんだろう、という問うところまでは許すが、あとはバンッと蓋を閉じてしまう。という伊集院さんの表現。
「そこに神の全能性が表れている」という姜尚中さんの言葉ですが、全能性だろうがどのような表現を取ろうとも、ご都合主義が濃厚なのは変わりません。
不幸が襲って神に抗議するヨブに対して、神に抗議するのか、それほどえらいのか、という青年や神本人からのお叱りが。
敬虔とも言えますが、これは一種の思考停止でもあるでしょう。戦前に親鸞が流行ったというのは、キリスト教に似ているのと同時に、そういうやや自主性を放棄した感じが似ている、という理由があったのかもしれません。
しかし一般的に、両宗教とも個人主義を育てたと括られる不思議。個人の確立といってもいろいろな層があるということでしょう。
スタジオではここで共同体ではなくはじめて神と個人の関係が出てくる。これが個人主義につながる、とのこと。
しかし、共同体単位で裁かれることが無い他の宗教はさらに個人主義なのではないですかね。
この物語は神に対する自己正当化を戒めたものであるとのこと。
浄土系の「善人」に当たるものが戒められているとも言えるでしょう。
さらに時代は下って、イスラエル王国は跡形もなくなり、神殿も破壊。ここに黙示録が成立するとのこと。
なんで神を信じている自分たちの国が無くなって、信仰しない人間が栄えてるんだ。という疑問が当然出てきます。その矛盾を解消して神がすべて滅ぼしてくれるに違いない、と信者たちは考えた。伊集院さん曰く「これは一気にみんなやるんだな」ということを書いたのが黙示録であるとのこと。
スタジオもかなりあきれ気味で、アナウンサーは残った人の結束は強くなりますね、と以前のコメントの繰り返しのようなことを。かなりまずいんじゃないかという雰囲気。
ああ、ほのかに漂うカルト臭!
ここら辺の基本的な性質はキリスト教にも濃厚に受け継がれている感じ。キリスト教のある種の過激さは開祖をはじめ多くの人が殉教して行った「殉教の宗教」であるからと説明されますが、ユダヤ教の性質を受け継いだ部分も強いでしょう。
キリスト教というと世界史的には「マニフェスト・デスティニー」などによる、ネイティヴアメリカンや他民族へのひどい仕打ち。世界制覇の原動力としての力が目立ちまずが、弱者がギリギリのところで耐えるための宗教を強者が持ってしまったことによって圧倒的な攻撃性が喚起されてしまった悲劇、というのを強く感じますね。
黙示録は成立が紀元後で、新しいんですね。
もうユダヤ教徒は2000年も待たされている。これじゃあんまりなので、神が救済を始めたという説が出てくる。これがイエスの登場であるとのこと。
イエスの実働は数年。世界宗教への可能性がここに出てきます。
ユダヤ教徒であるが故に受けた受難が結束を強くして行った。「究極の持続可能性」という言葉を姜さんが使っていましたけど、贅語ではないでしょうか。
横の加藤隆教授の「待つしかないというのが結論」という言葉がシンプル。
「歴史と記憶」の宗教ということ。苦難があるとそれをばねにする人とそこでいじけてしまう人がいますが、その歴史には双方が複雑に入り乱れている印象をもちました。
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