(http://www.asahi.com/articles/ASJ735KMZJ73UTIL021.html)は7月4日の森本毅郎さんのラジオで取り上げられていましたけど、テレビではほとんどみかけず。壮行会を取り上げてもスルーするシーンをみかけましたね。
メディアは「独唱」だといったのにどういうことなのか、と質問しなかったのだろうか。
そもそも森自身は歌ったのか、橋本聖子は良いのか?など滅茶苦茶な矛盾だらけです。
しかし存在そのものが国家の恥部です。
タイトルは朝日の記事を引用しましたが、これをはじめそもそもタイトルが全くおかしい。
もちろん電波な部分は
「口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」と選手団に呼びかけた。
であり、ここを中心に見出しを付けるべきなのです。
「歌えない」という言葉で、歌わないではなく、能力的な意に誤誘導して和らげる意図を内蔵しているのも悪質だと思います。
例えるなら治安維持法が可決された時の見出しに「安全な日本を作ろう、首相訴える」と題を振っているようなものです。
まったく問題点が伝わらないのです。
明らかにそこには忖度があります。
ここまで言って取り上げられないのでは、今なら「神の国」発言をしても全く取り上げられないのでは。
忖度するといつの間にか引き返せないところまで来てしまう、というとりあえずの戦前の反省にも関わらず(実際は主導してきたといっていいくらい新聞は戦争に積極的だったらしい)メディア状況が全体主義に奉仕する、戦前と同じ方向にひた走ってきたといえます。
おかしいと思った人はいたと思うのですが、この場で森を糾弾できない雰囲気があったのだと思いますけど、そういう意見を表明できない社会的な雰囲気も異常です。
また「神の国」発言自体も、アメリカでもそういうなどと擁護されることがありましたが、言葉の前に「天皇を中心とする」が付く戦前の国家主義であると確定したといえます。
君が代は日本を破滅に追い込んだ戦争の責任者である天皇を讃える内容であって、歌わないのは個人の良心の自由です。
オリンピックは国がお金を出しているだろという人もいるかもしれませんが、そのお金を出しているのは国家主義を唱道している連中ではなく、国民です。そして国民は戦争で壊滅的な被害を受けているのです。
森喜朗はそんなに国に尽くすのを重要視しているのなら、せめて形だけは大久保利通に追いつくために私財をすべて国に投じて借金までしたらどうだろうか。
これだけ醜くでっぷり太って国に尽くせなど笑止千万である。
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