(憲法を考える)9条、立憲主義のピース 寄稿、憲法学者・石川健治

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12339723.html)の

 ただし、ここには、一つの問題がある。新しい結界のもとで再編された「公共」は、立憲主義が想定する「無色透明」なそれであるが、そうした「公共」に対して、国民の情熱や献身を調達することは難しい。ありていにいえば、そうした無色透明なものに対して命は懸けられないのである。この点は立憲主義の、それ自体としてのアピール力の弱さを示している。

 この点、矢内原は、政教分離原則は「国家の宗教に対する冷淡の標識」ではなく「宗教尊重の結果」であることを強調し、むしろ「国家は宗教による精神的、観念的な基礎を持たなければ維持できない」ことを強調した。当然ながら、最もふさわしいのはキリスト教、というのが矢内原の立場だ。近代立憲主義国家は、実はキリスト教による精神的基礎なしには成り立たないという。実は藤林も無教会主義の敬虔(けいけん)な信者であった。

は大切で興味深い話。

私はこれをキリスト教ではなく神仏儒といった言い方に代表される日本の精神で行うべきだと考えます。

そしてそれらにはキリスト教など他の宗教にも通じる根本的な部分があるので、それを取りだして根本に据えたい。できれば憲法に書き込みたい。

日本はまごころ慈悲慈しみを理念の柱に据えたの国であるとするべきなのです。

この論考でもその部分をどうするのか筆者の意見がありませんが、「公共」を語ろうとする人でこの部分の議論をしない人は逃げています。
その逃げの重なりが日本の根元を腐食させていると私は考えているのです。
いわない人はせめて私は逃げますと宣言するべきです。

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