3月29日の朝日新聞には池上さんの「3・11報道」と題する新聞記事を監視する役割のコラムがありましたが、内容は「顔が見えること」といった、報道の表現の伝え方について。
このコラムはそもそも新聞の偏向を防ぐためにあるのが本旨のはずで、それをやらないのであれば、新聞は違う人にもう一つ新聞を監視するコラムを書いてもらうべきだと思います。「3・11報道」を振り返る、メディアを監視するべき記事がこのような内容でよいのでしょうか。大手メディアが原子力ムラからお金を貰っていて批判をできなかった、ということは、このたび教科書にも明記された非常に重要なことなのです。
池上さんは5月19日にもTPPの特番をやっていて、ISD条項や医療の問題などを取り上げていましたが、いまやってもしかたがないでしょう。池上さんの過去の放送を網羅していないので言い切れませんが、完全に時期を失しているのではないでしょうか。そしてそれが意図的なものだとしたら報道としてゆゆしきことだと思うのです。
また、ISD条項については、日本が被害者になることばかり考えている、といいますが、池上さんの解説による日本の利益の内容は発展途上国相手のもので、日米などで大部分のGDPを占めるTPPでは意味の薄いことです。
またこの問題で必須のグローバル企業を益するのではないかという視点がありません。
「市民のためのTPP情報」(https://twitter.com/citizen_tpp)で続けて批判されていますけど、池上さんは今までも変な事を言っていることが多く、批判されるのが遅すぎたと思います。
5月20日の「未来世紀ジパング」では夏野剛さんが日本の善意のビジネスについて紹介していて、松下幸之助や本田宗一郎という人は、世のために何かできることはないかといっていた、社会事業家としての側面を持っていたのだが、バブルを過ぎてみんなそのような事を忘れてしまって、最近再び若者の間で社会事業家的な発想が出てき始めた、という事をやっていましたけど、やはり本当の優しさを持った強さ、というものが一番理に適っていると僕は思います。この忘れていた時期は、虚飾の極みであるバブル時代を含めて日本が実質として一番弱かった時代と言えるでしょう。
人間というのは、健康であれば優しくなるようにできているのです。それが人間の本質、古い言葉でいえば仏性だからです。昨今の優しさのない企業人や政治家を始めとした社会の構成員の状況は、日本の弱さが端的に露呈している部分だと思います。
「強くなければ生きていけない、優しくなくては生きる価値が無い」という言葉を座右の銘にしている人は多いですけど、意外と似たような言葉を東洋哲学の歴史の中で探すと、難しいような気がします。
それは強さと優しさを対立概念として捉えている時点で東洋哲学的ではなく、真理から遠ざかっているからかもしれません。
ただ、儲かっている人の中に、利潤だけを求めたとんでもない人が多いのは、伝統的に非難されて来たとおりです。
NHKで何かzunキャップ?という選択肢がクイズ番組で放送されたみたいですけど、やっぱり東方Projectは基本があって、それがzun帽などで横にずれて行くんですよね。
シリーズものっていうのは難しいんですよね。まったく違うものだと、シリーズの連続性というものがなくなって、ファンはついていくのが大変ですし(私は個人的にはそういうのも好きですが)かといって似たようなものだと飽きられる。東方Projectの基本があって、毎回楽に楽しめるのに、綺麗に横にずれていて新鮮な所もある、というのはシリーズ物としてかなり強いところだと思います。
5月21日のニュース23で、ボルトの走法を取り入れてタイムを伸ばした陸上の土井杏南の特集をやっていましたけど、椎間板ヘルニアで故障をしているそうなんですよね。
ボルトの走法で骨盤の動きに注目しているそうですけど、どうも上半身にはまだ眼が行き届いていない模様。
ミラクルボディでも全身を波打たせるボルトの走法を取り上げていましたけど、下半身だけでそれを真似すると、波打つ下半身と直立する上半身の境目に負担がかかって故障をするのは眼に見えていると思うんですよね。
骨盤で歩く練習もしていましたが、面白い練習ですけどいくらなんでも骨盤に負担をかけ過ぎでしょう。
骨盤に傾けている精力をそのまま上半身に注ぎ込んで、バランスよく成長していただきたいところ。
ミラクルボディは半年くらい前に遅ればせながら全部観たんですけど、全部凄いですね。ボルト編が想像をはるかに超えて壮絶で、ヤム芋がどうとかああいう話は一体なんだったんだと思わされます。いくらワイドショーでも浅すぎた報道だったと思います。
NHKはドキュメンタリーだけ作っていれば良い、とネット上でも専らの噂で、この質を連打してくれれば受信料を払いたくなります。
この番組に取り上げられるとなかなか勝ちづらい、という声も聞きましたけど、取材・測定には想像以上に選手に負担がかかるのかもしれませんね。
5月22日のテレ朝の午後5時半ごろのニュースではスカイツリー一周年についてやっていて、元読売の大谷昭宏コメンテーターは一年前について、あの頃は閉塞感が覆っていたので~と振り返っていましたが、すべてを放り出してメディアを筆頭に浮かれ気分を演出しているだけで、原発も被災者も状況は厳しく、厳しさは増しています。株価のバブルで煽りますけど、貿易赤字などについて真剣に報道したり考えていれば、このような雰囲気の報道は出来ないはず。
このように無視されているという意味ではさらに状況は悪化しているわけで、そのように釘を指すのが本来の報道の役割なのですが、十段階ぐらい成長してもそのようなことは望むべくも無さそうです。
5月22日のtbsの午後6時35分ごろのニュースでは自衛官について取り上げていましたが、このひとは親の収入が少なかったのでなったとのこと。何かこういったところもアメリカ化しているなと感じます。やはり首相が最前線に立つべきだ、というのはしっかりと行われるべきだと思います。
NHKで薬師寺の僧侶が東日本大震災の復興支援で写経を勧めている、というのをやっていましたけど、中身を観ていないのですが、写経という方法はどうなんだろう、とも思います。確かにそれで落ち着く人もいるでしょうけど、かえって疲れる人もいるでしょう。被災地のニーズというものを基準にか考えた時に、被災者に寄り添うというよりは寄り添わせているような状態になっていると思うのです。
また、伝統的に仏教の市民に対する支援ということでいうと、たとえば中村元さんが特に尊ぶところの忍性、もしくは鉄眼禅師(「慈悲」(講談社学術文庫) 中村 元 (著) 227ページ)や悲田院の制度。江戸時代を通しても「徳川の日本寺院が(中略)救恤や養育・介護に果たした役割も、もっと評価されていいはずだ」(徳川社会のゆらぎ (全集 日本の歴史 11) 倉地 克直 (著) 217ページ)と評価される日本の仏教の伝統からいうと、真にか細い支援であるといえるのではないでしょうか。
あまりに物質的・社会的な面で被災者の役に立とうという意識が薄いのではないでしょうか。
ほかのキリスト教系・イスラム教系の集団をみても、金銭的な支援を始めとした、現世的に直接助けるような支援を行います。そしてそのちょっとした手助けが、支援を受けた人にとって、人生の中で非常に重要なものになる、ということも少なくありません。
そういう中で現代仏教の支援の要が果たして「写経」で良いものかと思うのです。
近世以前の僧侶達が、何か天災があった時に、被災者に写経を勧める、というような話は聞いたことがありません。
千手観音は仏の慈悲があらゆる手段を使って民衆を救う様を彫り上げられたものです。こういう時期に様々な手段の選択肢があるなかで、これが本当にベストなのか。他にも有効な手段があるのではないか、という部分が非常に疑問です。
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