行って参りました。
「阿国歌舞伎草紙 桃山時代 17 世紀初」は慶長年間に作られたらしく、阿国の資料はかなりありました。阿国は実在していないのではないか説がありますけど、これだけ同時代の資料があれば実際にいたのではないかと思います。聖徳太子もそうですけど、とりあえず資料が少なければ非実在説を唱えて注目を集める研究者がいるように思います。
「ロザリオヨーロッパ製 メダイに1830 年銘」が出品されているのは歌舞伎ものが好んで身に付けていたかららしく「ローマ教会の数珠」であるとの解説。
「中村座仮名手本忠臣蔵 西村重長画 大判紅絵 江戸時代 寛延2 年(1749)6 月頃」の周辺の作品は歌舞伎の舞台が描かれていていて、どれも透視遠近法を使って劇場のスケールを際立たせた「浮絵」という描きかたが採用されています。
遠近法ははやくに日本に伝来していながら、美意識に合わなかったらしくあまり使われていないのですが、劇場の場合は使った方が良いと当時の人は判断していたもよう。
オランダの風俗画をみたりしても思うのですが、教会の中などを描いた絵の遠近法のスケール感は格別で、石の文化、というのが遠近法を多用したくなる要件だったのかもしれません。
「市村座場内図 歌川豊国・勝川春徳合筆 大判錦絵三枚続 江戸時代 享和元年(1801)8 月」などやはり結構余所見をしている人が多くて、かつてのオペラの上演形態を思わせます。ちゃんとみた方が良いですよ、といいたくなる感じです(^_^;)
「さかい町 中村座楽屋之図 歌川国貞画 大判錦絵三枚続江戸時代 文化10 年(1813)」はファンがどうしてもみたい楽屋での役者の姿を描いたもので、最近はSNSなどで楽屋裏は良く発信されていますよね。
「中村座大入楽屋当り振舞之図 歌川国貞画 大判錦絵三枚続 江戸時代 文化8 年(1811)」は横の女性が、頭がみんなつるつるだとはしゃいでいた絵で、確かに何故かみんなつるつるでちょんまげが後ろのほうにちょこんとだけついています。なんででしょうねぇ?
「木ひき町 森田座顔見勢楽屋之図 歌川国貞画 大判錦絵三枚続 江戸時代 文化9 年(1812)11 月頃」は同じく楽屋の絵ですが、横の歌舞伎ファンと思われる女性二人が話をするには、すでに団十郎は団十郎の、幸四郎は幸四郎の顔をしているとのこと。
「校正新刻 三座猿若細見図 大判錦絵三枚続 江戸時代 嘉永3 年(1850)」の解説によると、歌舞伎役者は猿若勘三郎座から名づけられた猿若町では歌舞伎役者は芦屋町という所に住む様に言われていたらしく、図でみるとまさに長崎の出島のように囲われています。
吉原同様非日常の空間は囲っておくということでしょうか。トラブルもあるでしょうしね?
「東都名所 猿若町芝居 歌川広重画 大判錦絵江戸時代 嘉永3 年(1850)頃」は広重の珍しい芝居絵ですが通常とは異なり場を描写しているとの解説。これだけ盛り上がっているのになんともうら寂しい感じがするのが広重の不思議なところで、寂寥感に溢れています。
「台本『菅原傳授手習鑑 序切 傳授の場』」は歌舞伎特有の勘亭流という書体で書かれていますが、席が埋まるように余白が無い様な書体を心がけているとのこと。
「連合国最高司令官マシュー・バンカー・リッジウェイの手紙 昭和26 年(1951)5 月26 日付」は六代中村歌右衛門に感動したという内容。
「舞踊図 江戸時代 17 世紀」も地味ですが動きが良く切れています。
「瀬川菊之丞 石川豊信画 大短冊紅摺絵 江戸時代 宝暦7 年(1757)頃」は瀬川菊之丞のたおやかな女形を描いた作品ですが、どうもこの名跡は良い役者を何人も輩出していたみたいですね。浮世絵を観ていてもたまに物凄く良いのをみかけます。
現代は多分誰もついでいないのでしょう。パソコンも一発変換してはくれません。
「五代目松本幸四郎の望月左衛門 五代目瀬川菊之丞の巴御前 三代目尾上菊五郎の木曽義仲 歌川国貞画 大判錦絵三枚続 江戸時代 文政6 年(1823)11 月」は役者の背後から放射状の線が出ている漫画的な様式で、国貞の創造なのか。北斎もやっていて、すでにこの頃壮年ですので、そちらなのでしょうかね。
「六代菊五鏡獅子(六代目尾上菊五郎) 平櫛田中作 昭和20 年(1945)」は非常に力感が良く出ていて、さすがに名彫刻家と言われるだけはあります。
「『客者評判記』式亭三馬著/歌川国貞画三巻合 江戸時代 文化8 年(1811)」はお客の評判を記したもので、ネットの雑談でこういった具合のものは耳に挟みますが、体系的にまとまっているのとギャグ風味が強いのが特徴でしょうか。
カタログには江戸時代の舞台のことが書かれていて、大入りになったときは舞台の内側にまで席があったらしく、役者自身もその観客との近さを楽しんでいたとのこと。
その昔、将棋界の今昔を比較した写真が雑誌に載っていて、戦後まもなくごろのタイトル戦の感想戦はみんながびっしり囲んでいたのだが、だんだん現代に近づくにつれて遠巻きに見守るようになったとのこと。昔の人は礼儀正しかったはずなのになぜだろう、という感想が載っていましたが、この前の山田太一さんの話のように、やはり直接の身体的な接触を避けるような風潮が戦後どんどん広がっていたのでしょう。歌舞伎はすでに国の演劇として確立されようとした明治時代からそういった傾向が始まっているといえるでしょう。
「舞台と客席には劇場全体を包み込みむ「場」としての一体感があ」ったとのことで、現代の歌舞伎界もそういった人と人との密なつながりを回復して、現代に粋な華を咲かせてもらいたいと思います。
躍動感があって、瀟洒でもあり、理屈ぬきに楽しい展覧会でした。ありがとうございました。
この展覧会の後に横で行われていた「絶対風景」という日本の風景を見直す写真展がやっていたのですが、例えばイギリスは17世紀の時点で森林に覆われていたのだそうですが、今はほとんど無いらしく、一方日本は7割が森林であるとのこと。
森林を注意深く日本人は保護してきたのですが、やはりそもそもが木が豊かな国でもあります。
海外の風景は雄大だが日本の自然はこじんまりとしているといわれるが本当だろうか。実際にみないでいっているのではないか。
という問いかけが冒頭に掲げられている展覧会で、その意氣は良しです。やはりヴァリエーション、美しさ、雄大さ、どれをとっても格別で、この風景の美しさこそが日本人にカメラへの興味をもたらす。
家電はほとんど中韓に駆逐されている状態だそうですが、唯一デジカメだけは海外で強い日本家電なのだそうで、その背景には日本の自然の風景があるといっても過言ではないでしょう。
あとは空気清浄機ぐらいなのでしょうか。
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