太田記念美術館 「東海道五十三次の世界ー広重と国貞」 後期 その1

#その他芸術、アート

桜井センリさんの死は、孤独死という面が強調されていますけど、ちゃんと発見されており、各社一斉に孤独死という記号に当てはめて報道しやすくしているように思います。

と思っていたらモーニングバードで舘野晴彦さんが同じ事をいっていて、これを孤独死と呼ぶのは失礼だ、報道しやすくするために孤独死にしているんじゃないか、ということで、まさに思っていた通りの事を喋ってくれました。

しかしクレイジーキャッツはドリフと違って一人一人がしっかりしていますよね。

この日は清水宏保さんがTPPをやったら私の出身地である北海道は壊滅だ、といっていましたけど、はっきりいっていて素晴らしいと思います。

昨今は新聞などを読んでいても、もしくは新聞社出身のコメンテーターの話を聞いても、あなたの意見はどこにあるのだ、というような記事が多く、少なくとも一(3つくらい?)昔前ならあなたの意見はどこにあるのだと上司に注意されたのではないかと思うのですけど、最早そういうのすら雲散霧消してしまっているのではないでしょうか。

前回TPPとメディアの話を書いたら直後に朝日新聞の一面に内閣の支持率とTPPへの賛成を並べる意図を感じさせる記事が。多くの政党は原発を争点にしたがっていないといわれますし、それについての処理など、平明にみていくと重要な争点はたくさんあります。
何が原因でこういう誘導を行おうとするのか、出所は謎ですが腐っているのは確かで、多くの識者がこういったことを指摘して批判できるかがとても重要だと思います。

(農業以外は無視する)TPPや(デモを報じないなど)原発はメディアにとって聖域ですけど、「識者」にとっての聖域はかつては唯一ともいえた発言場所であるメディアで、その圧倒的な矛盾に較べると構造的なゆがみを問題視する声は大きくありませんでした。ここの依存関係は脆くなっているので、少なくとも以前よりは期待できるのではないかと感じています。

今回の解散では身を切るということで定数削減が掲げられましたが、翌日のモーニングバードで玉川さんがいうには給料を減らすのが身を切るということで、それは嫌だと思っているとのこと。確かにそれも重要なのかもしれませんけど、やはり政治家の身を切るといえば、自分の利益のもとになっている団体が嫌がっても国全体の為になることならやる、ということ以外にありえません。メディア改革から経団連にシロアリ退治まで、それができないのが一番の問題です。いかに身を切るという言葉を論点をずらして使うかに、政治家は精根を傾けていると思います。

玉川さんは「財務省の思うつぼ解散」といっていて、消費税の値上げを確実にするためと官僚のシステムの防衛のためだといっていましたが、維新諸々を躊躇なく「第三極」と呼ぶ所が駄目です。
橋下は野田を非常に評価しており、都知事選にわざわざぶつけてくるのと相俟って、連係プレーは完璧であるとこの日の朝にアーサーさんもいっていました。
そもそも「第三極」が現政権と対立しているかのような報道はきわめて疑問で、八百長を真剣勝負に仕立てていると思います。
真に意見をたがえる市民の声を代表する第三極の形勢を妨げるという点において、とても罪の重い世論操作だとおもいます。

また財務省と解散の観点からいうと、年末までに期限が区切られていた国のエネルギー基本計画が流れてしまうというのが非常に重要です。原発を守るということは銀行を守るということであり、それが財務省の思惑である、ということをしっかりいってくれるのかと思ったのですが、そうではなくてとてもがっかりしました。

ここら辺はメディアも大きくお金のご相伴に預かっているところで、批判できないのでしょう。メディアもそういう意味では原発の問題を深く掘り下げたくない事情があるといえます。

確かに玉川さんの官僚のシステムの腐敗を追及する志は熱いのですが、例えば復興予算一つにしても番組内で官僚の動き責任を透明化できたかといえばほとんどそれはなく、玉川さんの特集でも個人はほとんど登場しない状態です。

メディアと官僚は記者クラブ制度を通じて癒着しているといわれ、報道の方針を通達する秘密会議が存在するという証言も多数あります。電通を通じて間接的に細かくコントロールする仕組みも明らかになっていますし、さらにそこに銀行・経団連など広告主を挟んだ影響力も見逃せません。

これがテレビ界全体として官僚のシステムを追究できない原因になっており、テレビは官僚最大の利益団体といえます。射られるべき馬なのです。
なので、システムに触れないで一人で盛り上がっても、それは全体の失点を隠すカモフラージュ以外のものにはなりえません。下手をすると財務省の利益を一番守る人物にすらなってしまいかねないのです。

政府とメディアは一体化してはいけないというのは戦争の一番の教訓だったはず。それをやはり思い出してもらいたいと思います。

司馬遼太郎さんは晩年、政治家の批判は良くしたんですけど、官僚の批判はしなかったんですよね。「雑談 昭和への道」などで、明治政府がおかしくなったのはペーパーテストで入ってきた連中が入ってきたからだ、といっていましたけど、そういう意味では官僚は受けた教育は彼らと大差がなく、もっと批判しても良かったと思うんですよね。ここら辺もやはり矛盾・ねじれを感じますよね。

また、明治になる前から官僚機構はむしろ欧米よりしっかりしていた、として、官僚機構を明治以後のものとしては捉えないで、江戸時代から連続したものとして捉えていたんですよね。
実際は多くの方が指摘している通り、明治以降のものであり、江戸のものとは教育にしても選抜方法から何から異なるものだと思います。このことに結局どういう意味があるかといえば、やはりこれも、現代を歴史的に擁護しているものの一つなのではないかと思います。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52808596.html

国民作家としての司馬遼太郎さんは戦後の思想のある部分、もしくはそのものを体現しているといって良いと思います。最近の復興予算の使い道の話ですとか、原子力ムラですとかをみていますと、司馬遼太郎さんが触れなかったということは、戦後の日本を考えた時にアンタッチャブルな病巣だったということなのではないでしょうか。

15日には何気無く拉致問題の交渉の映像が流れていたのですが、横田早紀江さんの、政争の具にしないで欲しい、という言葉にはっと。特にやる気はないんですけど、接触したというだけで政権の好感度が上がるのでポーズをとったということでしょう。このような交渉は官僚が動かなければ不可能であり、その操り人形といわれる野田政権の極めてマイナスの意味での面目躍如であって、このようなことで交渉するポーズをとって拉致被害者の方々の心を翻弄する外務省の人間性はどうなのかと感じます。

テレ朝の夕方のニュースでは30秒ぐらいかけて横田さん夫妻の気持ちに焦点を当てて映像を流していましたが、特に補足は無し。具体的な「党利党略」を突っ込んで報道するのが、ニュースではないでしょうか。

今日の報ステでは中国の問題をやっていて、現地の特派員の人が、地方の人は何点も点数が高くなければ学校に入れなくなっている、ということをいっていて、加藤徹さんの情報によると、少数民族には大学に入りやすいという飴が用意されている、といっていたのですが、逆の情報です。地方と少数民族はあくまで違うということなのでしょうか。

また、中国では例えばみんなが病院に並んでいる時に、VIPは特別な入り口から先に入れてしまう、これが問題だ。といっていましたけど、日本にも前にも話しましたとおり、橋本龍太郎の母親が規則どおりに病院を回らないで一箇所に居続けたという話ですとか、こういう違いはあるんですよね。もちろん中国の場合は露骨で強烈なわけですが、日本でも存在するものがあまり報道されないのでないかのように思われている、という面はとても大きいと思います。そしてそうでなくとも、所持金で受けられる医療・介護の差は、本当に中国の事をいえないくらいの開きに達していると思います。

国内のデモを報道しないことでも、なんだ中国と同じじゃないか、と最近では失望が広がりましたが、色々な理由で報道が歪められる事が日本でも多く前からあったわけですが国民が広くそれを知らされていなかったということだと思います。報道されないことが報道されていないがために、報道する側の人間でさえも国内を清廉にみすぎている、ということは往々にあると思います。

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