太田記念美術館 浮世絵戦国絵巻 ~城と武将 後期

#その他芸術、アート

伊達市の汚染された米が出荷されてしまったようですね。あのゆるい暫定基準値を超えていたというのですから、相当な汚染だと思います。

消費者に汚染されたものを食べてもらうのではなく、食品の徹底的な検査をする、もしくは要請して、汚染されたものは東電に買い取ってもらう、ということを徹底しなければいけないと思います。

「風評被害」という名の原発被害に一番神経をとがらせているのは農家ですが、農家は悠々と構えていられて、むしろ農作物の被害に東電が汲々としなければならない状態になるのが本当なのではないでしょうか。

東電の責任を訴えて、責任を取って当たり前であるということを前提にメディアが報道しなければならないのですが、原発の農作物の被害の特集でも東電という言葉がほとんど見当たらないような状況で、このことが非常に大きいと思います。

そして農家・地方は今回絶対的に被害者なのですが、それでも一貫して政府・東電さらにメディアと戦うという姿勢が無いと、結果として消費者にツケが回り、加害者になってしまうと思います。
地方の分かれ目なのではないでしょうか。

ちょっと前では、「さよなら原発!福岡1万人集会」は一万五千人を集めたそうですけど、どうもテレビでは報道されていないみたいですねぇ。少なくとも私はみていません。
恐らく猫ひろしに完敗したことは必定で、いくら広告費による拝金主義でも恥ずかしくな、、、、、いのでしょうねぇ。

また、通販生活のCM放送拒否の事件がありましたけど、原発の議論に対する閉鎖性に、流石にびっくりした方も多かったようです。しかも拒否したこと自体を報道しないというのも、当然ながら酷いと思います。

この政・官・財・マスコミ・学会・司法の団子状態は、完璧に戦前と同じだと思います。
かつての新聞は戦前を振り返るようなことがありましたが、私は自分とは関係の無い他者を語るようなその語り口に非常に疑問を持っていました。

せいぜい本格的な危機になる前に気が付かなければいけない、といった教訓を引き出すくらいで、実際に「危機」の中にいる、という自覚に余りにも乏しかったと思います。

ジャーナリズム本来の姿を取り戻さなければいけないということが、決して他人事ではなく、現代でも精力を傾けて取り組まなければいけない課題だったことが、震災後に眼に見える形になったのではないでしょうか。

行って参りました。

どうも戦国絵は血なまぐさくて肌にあわないんですが、今回良かったのはそれより平和な、肉筆画。

二代目葛飾戴斗の「神功皇后図」が北斎の「怒涛図」を思わせる波で、混沌とした激しさそのままに受け継がれています。

作者不詳の「出陣の図」が武士と女性を描いただけのシンプルな作品ですが、女性の肩の落ちた佇まいにかなり味わいがありました。室内の描写も、丁寧です。

「富岳三十六景 信州諏訪湖」は太田記念美術館に最初に来た頃にいたく感激した作品ですが、この真ん中の木の生命力が素晴らしいです。色数は実に少なく仕上がっております。

今回は戦国ものということで、城を描いた作品が多数。

いままでいくらかみてきましたように、司馬遼太郎さんはオリエンタリズム的といいますか、ヘレニズム的な要素を強く持っている作家だったと思います。

とはいえ、アマゾンの書評の「アメリカ素描」の項にレビュアーの方が書かれているように、日本的な物を書いているので、日本文化の干城のような人だと思っている人も多いわけですが、実際は逆だと思います。

しかしそう印象を持っている人も多いわけで、そういう視点から、よく読みこまないで批判なさっている方には、私からみて同じ穴の狢じゃないか、と思うような方も結構いらっしゃいます。

「司馬遼太郎が語る第一集 建築に観る日本文化」では平たく言って、アーキテクチャという概念がルネッサンスの頃に誕生し、日本で唯一それに近い感覚を持っていたのは西洋の影響を受けただろう信長である、という内容を語っているのですが、この史観の特徴は近代ヨーロッパに画期を求めて、それに関係するもの以外が視界に入っていないことだと思います。

つまらないものだと直接的にはいっていませんが、信長が卓越していたということでそれが示されており、実際氏は古代建築に余り興味が無かったと思います。

司馬遼太郎さんは他にも似たような事をいっていて、西洋の近代の騎兵の運用はとても優れているが、それに近い感覚を日本でもっていたのが信長である、ということをいっています。
これは、桶狭間の奇襲を評論したものですが、そもそも現在では桶狭間の奇襲は無かったという説が有力になっています。

この近代ヨーロッパに画期を求めて、そこに接木した形で自画像を描き、自国の歴史と断絶してしまうということは色々な分野でみられると思います。

建築という分野では構造をみれば優れているのが一目瞭然で応用しやすかったのか、霞ヶ関ビルや東京スカイツリーは日本の五重塔などの建築技術が生かされています。
しかし、他の分野では弊害が現れているのではないでしょうか。

たとえば、「環境問題とは何か」(富山 和子 (著))によると、「自然保護といえば私たちは、ヨーロッパが大先輩だと思っている。 専門家ほどそう信じている。事実そのように教えられている。だが実は日本こそ、世界最古の自然保護法を持つ国だったのである」(58ページ)らしく、自国の歴史との断絶を指摘していると思います。

この事が日本が環境分野に伝統的な大きな可能性を宿しながらも、のびやかな自主的な創造性を発揮し切れない原因になっているのではないでしょうか。

また、「東京の大マスコミの一連の報道ぶりを見ていると、ある時点から突然申し合わせたように、各紙が同じ論調に変わっていく。米の市場開放に向けての共同姿勢である。いったいその裏で何があったのかと、雑談で私たちはよく話題にしたものであった。」(98ページ)らしく、こういったことは震災以降だれしもが疑問を持ちましたし、東電をはじめ各界の責任者を守ることなど、現代も強力に続いている腐敗です。

枝野にしても前原にしても、マスコミが追及しないことが非常に大きいと思います。

戻って、「慈悲」(中村元)によると「もともと社会政策とか慈善事業とかいうようなことは、本来東洋においてまず盛んに行われていたのであって、西洋においては年代的にはるかに遅れて現れたのである。」(323ページ)らしく、ここにも歴史的な断絶が指摘されていると思います。今日慈善事業に関しての議論は日本の現状と西洋との比較に留まっていることが多いのではないでしょうか。

私はここに日本らしい慈善事業の社会的な在り方の主体的な展開が無い、一番の理由があると思います。

医学の中でも幕末において「外科以外、漢方医の腕は西洋医よりも優れていたのです。」(歴史に好奇心 2007年4-5月 (NHK知るを楽しむ/木) 154ページ)という漢方の伝統は打ち捨てられたままだと思いますし、緒方春朔の種痘の研究など、日本の先進的な業績が余り注目されないといいます。

新聞に漢方の栽培の記事が載っていましたけど、安全安心の攻めの農業ということでいえば、漢方を振興してそういうものを輸出すれば、世界的にも喜ばれるのではないでしょうか。

こういうことは日本の各分野にあって、それが層をなしていて、たとえば外交の主体性の無さ、といったときのその脆弱な精神的基盤をなしていると思います。

浮世絵においてはそれは国芳に託されることが多く、日本画の伝統は取るに足らないものだったが、西洋の画法を取り入れた、国芳だけが僅かに例外であった、といった論調がみられると思います。
国芳は優秀な絵師ですけど、このような日本画史の見方があるとしたら、私は反対したいです。

そういった、国芳ヘレニズム(命名した)的なものも含めて、日本の各分野が歴史と接続し、その自律的な創造力を発揮し始めたら、どれだけ面白い世の中だろうと思うのです。

昼食は109近くの「小麦房」で。宣伝を兼ねて言えば、激安讃岐うどん屋の中で圧倒的に美味しいと思います。クーポンがインターネットで拾えるのでお忘れなきよう(この日は忘れてしまいました)。

うどん好きといえば、まだ半分しかみていませんけど、先週のいいともは面白かったです!
衣裳もとてもかわいらしくて、出て来た時の歓声も凄く大きかったと思います。
自然に笑いの輪の中に入っていて、東つながりとか、回答もしっかりしていてとても面白かったです。
他のお笑い専門の人より手数が多く、受けいていたくらいだったと思います!

これも半分しかみていませんけど、よんぱらは画質が上がって、りのさんの美人さん度が際立っていたと思います。
ナポリタンの解説とか、ああいうちょっとおざなりな仕事が、りのさんが取り上げるとシュールにみえてしまうのが、味だと思いました。

MJはブローチを付けられた時に、ぱっとポーズをとったところとか、相変わらずかわいらしいと思います。

ストライクTVは感想が率直で、実感がこもっていたと思います。

最後は恒例の明治神宮へ。観光客の戻りはちょぼちょぼな感じですかね。歴史の浅い人工林とはいえ、なかなかの生命力のある木々だと思います。

東京の自然といえば、最近のお気に入りは東京サイトで、包み込むような声と、東京の自然の美しさに身体心が揺れます。

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