行って参りました。
行く予定は無かったんですけど、新聞で褒めていましたので行って来ました(笑)なんでも貴重な作品を沢山借りることに成功したそうなんですけど、お金を払った訳ではなく、収蔵品との交換で賄ったそうです。やはり、美術館としてはそういう在り方がエレガントですよね。
五木寛之さんが講演で褒めていたのも理由の一つです。そういえば薬師寺の講演だったのに、五木さんが話題にした美術品は、ガレとかモネとかモディリアーニでしたね・・・。十一面観音の話もしていましたっけ。
サントリー美術館に行くのは三回目ですが、中々一直線には行けません。今回も新宿で大江戸線を探して、辿り着いて乗ったのですが、次の駅に行ったらもう終点だって言うんですよね。何やら逆方向に進んでいたらしく、大江戸線の構造も中々複雑です。
私が最近ちょこちょこ動いて回れるのは、本当にスイカのお陰で、これが無いと相当大変です(笑)
「I. コラージュされた日本美術―ジャポニスム全盛の時代」は冒頭に北斎漫画が有ったんですけど、流石に見事です。蛙であるとか、歌舞伎役者が見得を切っているような感じが、格好良いです。あざとく感じる人もいるようですけど(笑
所でこの蛙はガレの作品に直接乗っていたりして、唖然としました。彼の初期作品。中でもこのエリアで紹介されたものは、ガラスを作って、そこに日本の何かから持って来たデザインをそのまま載せて、一丁上がりといった感じだった様なのです。この切り貼りの技巧は、ニコニコ動画の中でも最も素朴な部類の作品を思い起こさせます。創造とは組み合わせである、ともいいますけど、その出発点がここにあります。
そんな作品の中でも、花器「草花に蝶」は草に琳派風の気品があって、素晴らしかったです。
ガレというとガラス工芸の透き通った印象が有りますが、結構ケレン味を持った作家のように感じました。植込鉢「鳩」は両翼を伸ばして鉢にした形が奇妙で、更に模様は日本風だし、鳩の顔はエジプト風と、しっちゃかめっちゃかしていました。栓付瓶「バッタ」は更にグロテスクな色彩で、どう見てもバッタには見えず、キュビズムの走りか何かではないかと思いました(笑)
ガレは「動く花々」なる挿絵本を愛読していたそうですし、モノマニア独特の集中力も感じます。中々窺い知れない精神世界を持っている人だな、と感じました。
絵も非常に上手い人で、「雪中松に鷹」は宮本武蔵の絵を思わせる様な、鷹の孤高の佇まいが良かったです。第四部の作品に瓶「蜻蛉・ひとりぼっちの私」という作品があって、裏には「一人ぼっちの私、一人でいたい」と彫られているそうです。それを読んで合点がいったのですが、もしもこれがガレの心の内を表したものだとしたら、それは宮本武蔵の心の内に似たものだったかもしれません。
創意工夫に溢れていて、花器「魚籠」は日本の魚籠がひゃげた形で、実用すれすれまで造形を追及しているのが、良い感じです。同じく、折紙形花器「富士山」も折り紙を立たせた様な、面白いデザインでした。
「II. 身を潜めた日本美術―西洋的な表現との融合、触れて愛でる感覚」にはガレの友達であった高島北海の絵が色々有りましたが、上手くて、ちゃんとした日本の絵師だな、と思いました。特に花卉図「菊に梧桐」が確かなデッサン力を駆使した所と曖昧な所のリズムが良くて、美しい絵になっていました。
当時ヨーロッパでは「日本人の生活がいかに芸術的であり、またそれがいかに重要か」指摘されていたそうです。芸術的というと構えた言い方になりますが、広い意味で多くの人の生活がとても文化的であったのは確かですし、生活に着目したのは素晴らしい視点だと思います。また日本の芸術は「触覚の美学」といわれていたそうで、これも日本文化の急所を突いていると思います。触覚の大切さは特に運動系の伝統文化に関わっている方は、繰り返し強調することです。
良く当時のヨーロッパ人が日本の美術を本当に理解していたのか議論になりますが、表面的な装飾の意味を正確に把握していたということでなければ、良く理解していたと私は思います。
また一方で、当時の日本は遅れた国として不平等条約を結ばされていました。上のようなヨーロッパの認識と矛盾が有るようですが、私は矛盾が無いと思っています。要するに欧米列強が求めていたのは江藤新平流の制度改革で有って、井上馨流の鹿鳴館ではなかったのではないか、ということです。そして現代でも国際化の波が押し寄せる中、これに類した誤りが散見されると思うのです。
「III. 浸透した日本のこころ―自然への視線、もののあはれ」では自然を模写した日本美術を模写するのではなく、直接自然を模写する、ということで、キノコのランプであるとか、そういうものが有りました。
私は百合が昔から好きで、個人的に花器「ユリ」が、飴細工のようにガラスと融和した独特の雰囲気が有って、心を惹かれました。
本展覧会では北斎漫画であるとか、ガレの作品以外も充実していて、小さなものですが尾形乾山が有りましたし、このフロアには野々村仁清の「貝形香炉」が有りました。17世紀中頃の作品なのですが、本当に本物の法螺貝の様な感じで、現代技術でコピーしたかのような驚きの品でした。仁清は「無尽蔵」の表現力とヨーロッパで感嘆されていたそうで、他の作品も今度見てみたいですねぇ。
他には本阿弥光悦・俵屋宗達の「柳下絵古今集和歌色紙」が有って、へぇ、宗達か、と思って観ていたのですが、横の人がこれを観ながら「私には芸術が分からない」と呟いていたので、そう言われて見ると大した物では無い様に見えました(笑)先入観を排して、排して、排して、美術作品を観れたら良いですよね。小さな色紙で、本阿弥光悦の筆捌きに躍動感は有りましたが、それ位の作品ですね。
「IV. ガレと「蜻蛉」」では、花器「蜻蛉と忘れな草」が蜻蛉のデザインを取り入れながらも、ロココ調の華麗なもので、綺麗でした。
碗「蜻蛉」は素地を広く露出させて、その風合いで勝負した日本の茶碗風の作品です。内的に日本に接近した作品ですが、素地にはヨーロッパ風の艶やかさが有りました。この作品は日本の作品の外面も借りていますが、素地を生かした、ということでは寧ろ次の作品の方に、素地を生かす思想を消化しきった姿が感じられました。
この展覧会のホームページのトップにも出ている、脚付杯「蜻蛉」は本当に見事な作品です。蜻蛉が生きているよう且抽象的な感じがします。そう感じるのは、最早蜻蛉が素地と同化して、蜻蛉そのものも素地になっているからだと思うんです。どっしりとしていて、古生代の琥珀に封印されているような趣がありました。この作品のサインのGalléのGが蜻蛉の形になっていると、解説に書いてあったので、何度もぐるぐる回って探したのですが、見つけられませんでした。脚裏に書いてあるのでしょうか。
この器を見ながら思ったのですが、ガレの作品は下から観るとまた趣が違いますね。色々な人が居ることを考慮して、この高さの展示になったのだ思いますが、下から見やすい様な展示の可能性もあるかもしれませんね。
今回の展覧会は、作品が四方八方から眺められる展示がとても多かったのが素晴らしかったです。落成間もないサントリー美術館の先進的な造りが存分に生かされていたと思います。ガレの作品は美しかったですし、ジャポニズムという文化現象の一筋の流れを見たような気分にもなりました。展覧会に携わられた方々はありがとうございました。
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