行って参りました。
何故閉幕直前(投稿時にはもう終了していますけど(笑))のこの時期かといいますと、迷っていたんですよね。正直高い上に「受胎告知」をそれほど見たいと思わなかったのと、異常に混んでるだろうとの推測で中々踏ん切りが付かなかったんですよね。それでも行きましたのはダヴィンチの「妄想ノート」(失礼)の幾つかが現物化されるというのが面白そうでしたからです。妄想はあんまりかとも思いますが、妄想は妄想でもダヴィンチは現今第一等の部類に属する妄想家だと思うんですよね。そしてそうした妄想家の妄想が実務家によって現実に移される時に非常に感動を生む事が有る訳です。今回模型に期待したのはそういう事でした。
ブースが二つに分かれていて、まずは一つ目のブースの行列に並んだんですけど、その先にあったのは受胎告知のみ・・・。ちゃんと見てきましたけど(笑)各所に天才性が反映されているのは分かるんですけど、ダヴィンチの才能の規模から見て、絵画一幅で分かる事には限りがありますからね。いや、そこまで凄いとまでは思っていないんですけど(笑)しかし、後で見たレプリカはやはりかなり受ける印象が違いましたので、もしかして思っているよりも貴重な機会だったのかもしれません。
見所は色々有りましたけど、個人的には書見台の細密描写がレオナルドらしいなと思いました。
第二会場では、楕円コンパスは針が屈伸する構造が読み切れなくて暫く立ち止まって考えていました(笑)コンパスも中々凄いですけど「楕円の定規とコンパスを使った作図法」も開発していたのは凄いですね。
模型は沢山有ったは有ったんですけど、もっと多くても良かったと思いました。ノートの断片を拡大して示した物に注釈が付いているものが結構有りましたけど、それに類する物は図書館に行けば何とか見たり出来るものでも有るので。
天才的な一方、何でも法則に当てはめようとする所は僅かに違和感も感じました。
有名な「ウィトルウィウス的人体図」の八頭身なんかは、美的な価値から割り出された比率なのかもしれませんけど、そこまで原理的に人間の身体を規定する意義は強く感じられませんでした。
身体の比率の定型化ということで言えば、日本で似た様な仕事をした人には定朝が居ますけど、レオナルドと違って彼は職人的な労力を省こうとする見地から仏像の比率を割り出した・・・と見えてそこには美的なセンスが凝縮されている感じもしますし、もしかしてレオナルドも美的な面と併せて、絵を描く際になんらかの指針が欲しかったので、自ら作り出した人体図だったのかもしれません。
レオナルドの中心には万物は法則で解き明かせるという信念があって、その考えの更に中心には円があったそうです。
レオナルドが円が好きだったと聞いて、日本の円が大好きな人物の一人の宮本武蔵を思い浮かべました(笑)宮本武蔵は実用性を手がかりにして円というものを真理を解き明かす道具、若しくは真理そのものと考えていたようですが、レオナルドは全く同じ事を物理法則の側面から考えていたのではないかと思いました。
「魂が座る席としての頭蓋骨」では魂の位地として脳の中心が示されていましたけど、確かにあそこは海馬だとか脳幹だとか有る中枢ですけど、何を思ってあそこに魂が有ると思ったのかは興味が有ります。
「スフォルツァ騎馬像の前脚(原寸大)」の迫力は凄かったですね。博物館ならではです。
永久機関の構造なんかは考えに考えているなぁ、と思いました。ただどうも摩擦の壁は分厚すぎたようですけど(笑)
「最後の晩餐」の一人一人がレオナルドの研究した人の感情のヴァリエーションのそれぞれに於ける典型的な行動を絵画に応用したものだというのも面白かったです。レオナルドの絵画っていうのは先端科学を応用した理詰めの必然性のある絵画としても見ることが出来るし、芸術として全体的に見ても面白いと、二重の意味で抜き出た存在だったんだなと知らされます。
空気遠近法とかも、絵画としての実用性以上に観察眼が素晴らしいです。きっと同じ物を見ても他の人とは持つ感想が決定的に違ったのでしょうね。
感想を書いていても消化に手間取るほどのヴォリュームと分野数で、生きて行く間に今回の事を思い出して改めて発見する事も有るのかもしれません。今回見られたのはレオナルドの仕事の内の一部だったと思うんですけど、レオナルドの思想の核心の芳香を感じ取れるような展覧会だったと思います。
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