行って参りました。
この回は自信の展覧会なのか、他の美術館などに行っても割引券が見つからないな、と思ったら、案の定、結構人の多い展覧会でした。出光美術館はなぜか喋り声が良く聞こえてくる美術館なのですが、今回はいつもよりデシベルが高そうで、いっそう注意のアナウンスが流れていました(^_^;)賑やかで良いとも思うんですけどねぇ。
ちなみに仙厓さんの展覧会は至る所で予告のチラシと割引券が山盛りになっていたりするのですが、これは出光が普及(教)の役割を強く自覚されているからだと思います(笑)
喜多川歌麿の「更衣美人図」は、落ち加減の着物が、瀧がたまねぎの様な層になっているような感覚を与えます。歌麿の常として妖艶なんですが、英泉ですとか退廃的と言い切られることが多いのに対して、歌麿はあまりそういう形容詞はつかないんですよね。立ち姿の深甚な内面性といいますか、そういう要素が強いからではないかと思います。英泉ももちろん良いですけど(笑)
西川祐信の絵はどれも、美人の夕涼みの自然さ極まる佇まいに、おまけとして胸がはだけている所が信頼の品質。和服のアドヴァンテージといえましょう。アメリカの夏の公園では女性が水着で日光浴しているそうなんですが、この習慣は何故か日本でなかなか根付かないんですよね。いっそのこと一足飛びにこの昔の習慣を復活させてm(以下省略されました)
しどけないなんていう言葉が、とてもあっている絵だと思います。
それにしても、この前「読むと書く」(井筒俊彦著)を読んでいたら、こういう文章がありました。
「西欧世界における無神論が、多かれ少なかれキリスト教のアンティテーゼとして発生しているのに対して、回教世界のそれは、回教そのものからはまったく遊離した別系統のもの、つまり西欧近代主義の移植という形で意識されているのである」(490ページ)
「近代西欧思想そのものの持つ内部的危機について既に様々な議論がなされつつある時、その危機を内蔵したまま、その思想を受け入れ、更に自国の、西欧のそれとはまったく異質の文化的伝統の中にそれをインテグレイトしなければならない西欧圏以外の国々の側にとって、現代の思想的危機は二重に深いといわなければならないだろう」(568ページ)
これを読んで前から思っていたことを纏めたんですけど、西欧近代思想の持つ意味は西欧とそれ以外の国によって意味合いが異なるんですよね。
西欧においてはキリスト教と近代西欧思想はテーゼとアンティテーゼという形でとりあえず共存している。アメリカではアメリカ的なものはサラダボウルの受け皿になっている。しかしそれらは、他の国々へ行くと、その国の文化を異質な他者として破壊してしまうんだと思うんです。そして、国の基礎となっている部分を崩壊させてしまう――――。
よってその部分を強力に補うなり、統合するなりして、改善し、更に良くしていくことが重要だと思うんです。
西欧近代思想やアメリカ的なものが悪いわけではなくて、このような事を念頭に入れた上で、国の設計をするべきだと思うのです。そのことによって日本は、非西洋圏の国々に、国の在り方の目安となるモデルを、提案することが出来ると思うのです。
「石橋図」は体をうねらせて見得を切る感じの力感を出すのが得意な、湖龍斎の特徴が最も発揮された絵の一つだと思います。ほとばしっています。この人、最初は春信の様式から出発したんですよね(^_^;)
「江戸風俗図巻」は菱川師宣の工房製作で、画風に忠実に描かれているのですが、やっぱり全員膝が曲がっている所が、面白い所です。
歌川国久は女性説のある作家らしく「隅田川舟遊・雪見酒宴図屏風」の女性陣は、ヴァリエーションが豊かです。男も肩付がいなせで、結構格好よいです。腕相撲をしている男を後ろのほうで口元を隠して笑う女性(多分)ですとか、雰囲気が出ています。
這うように本を読んでいる女性を見て、横のおばさまが、むかしはこんな風に読んで居たんだねぇ~、と感心?。しかも恐らくは音読なんでしょうねぇ。
鏑木清方の「墨田河舟遊」は女性による人形操りの宴を描いているらしく、そういう遊びがあったんですねぇ。
いうのはただということで、ここら辺を良くすると良いのじゃないかなー、という事を書けば、出光の展覧会は所蔵品の良いものをみせてもらえるのですが、展覧会のテーマを貫けていないことが多いので、他の美術館と交換をして、企画を一貫すれば、もっと統一した空気感が美術館に作れて良いかもしれません。
あと、展示品の制作年代について、江戸時代、とだけ書かれていたりする物が多いのですが、もっと絞ってあると一層参考になるかもしれません(^_^;)
とはいえ、今回も美人の佇まいが綺麗な、良い感じの作品が多くて面白かったです。ありがとうございました。
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