今、大河ドラマで「坂の上の雲」をやっているみたいですね。
司馬遼太郎さんの言葉で有名なものに、
22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。(ウィキペディアより)
というものがあります。
前に昭和初期の日本人の事を考えると気が狂いそうだ、といっていたという話を書きましたが、(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51637403.html)実はこの言葉はかなり怪しいのです。
ノモンハンの小説を結局書かなかった時のコメントなのですが、ノモンハンは実際は書こうと思っていたようです。
それがモデルにして書こうと思っていた人が、司馬が瀬島龍三と対談していたのを見咎めて、怒ってしまって書けなくなってしまったのが実際の理由のようです。
どうも書けなくなった理由をごまかすご都合主義的な発言なのではないかという匂いが濃厚です。
私は本当に昭和初期に対して痛恨の思いを持っている人は、瀬島龍三と親しく語らう、という事は出来ないだろうと思います。
なのでかなり怪しい言葉なのですが、司馬遼太郎さんの昭和初期に対する認識を端的に表している言葉だとも思ったので、引用いたしました。
司馬遼太郎さんの作品・言葉は全てカッコに入れて、慎重に吟味しないと引用してはいけないだろう、というのが私の考えです。
ではこの自分への手紙である、という言葉はどうかといえば、やはり後年の後付っぽい雰囲気も致しますし、実際ご夫人のみどりさんもそんなんじゃないんですという様な事を言っていたと思います。
しかし、実際にそのような目で歴史をみていたのは本当だろうと思います。
そしてどのような結論が出たかというと、どうも江戸時代人まではとてもしっかりしていたらしい。明治になってどんどん駄目になりつつも日露戦争までは何とか理性が残っていた。しかし、朝鮮併合あたりでその理性も吹き飛んだ。
というような結論が出たみたいです。(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51392809.html)
(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51556987.html)
このことが司馬史観の中の一番天才的な所で、批判するにしても賛成するにしても今までの多くの批評はここを読みきれていなかったと思います。
なのでどちらにしても本質を捉えきれていないわけで、批判するにしても、江戸時代の日本人まで一緒くたに切り捨ててしまったりして、そうすると批判された肯定側も何か急所を突いていないように感じる。そこでまた肯定意見を言い返す。
日露戦争の当否に焦点を当てたものも、実は司馬史観の本質からみるとピンボケだったと思います。
白川静さんが孫文の言葉を引くには「しかるに朝鮮を併呑するというようなことは、痛恨にたえぬ遺憾事である。これによって日本はあの大きな犠牲をはらった日露戦争の戦果も、悉く失ってしまった」(文字講話Ⅱ258ページ)とのことで、そもそも日露戦争自体が、事後の処置で大きく意味を変える類のものだっとおもいます。
そういったことが積み重なって、作品を取り巻く形で論壇が形成されて、ある方向性に向かって一層の影響力を発揮していたと思います。
司馬遼太郎さんは滅茶苦茶な所と、極たまに天才的な所が一緒くたになった人で、「坂の上の雲」では最悪の形でその天才性が発揮されてしまったのではないかと思います。
また、司馬遼太郎さんは取材対象を史実を脇に置いてでも美化して書く傾向があって、「竜馬がゆく」はその典型だと思います。「竜馬がゆく」ではまだ良かった、かどうかはわかりませんが、その美化によって本人の意図するところと、読者の心象との間に重大な乖離を生じさせてしまったのがこの「坂の上の雲」という作品だったと思います。
即ち、下り坂の時代だったという認識が正しく伝わらなかった。
私はかなり昔に司馬遼太郎作品を随筆・対談・講演は文庫などで入手できるものは大体全部、小説も読んでいないものは三十タイトルに満たない位まで読んだのですが、その時点でいわゆる司馬遼太郎論壇にほとんど触れていませんでした。
そしてその後に周囲の評を読んで、「司馬遼太郎は幕末から明治へ、上昇していく明るい側面を描いた」(「司馬遼太郎が書いたこと、書けなかったこと」新聞書評)といったような読まれ方をしていることに非常に驚いた記憶があります。
「この崇高な和(やわらぎ)をいとしむ日本人の伝統的精神が、明治維新の頃から失われたのではないかと思います。(中略)中曽根元首相によって、戦後の総決算ということが唱えられました。それは、当然必要でしょうが、明治以後の歩みについても、あわせて批判、反省する必要があるのではないでしょうか」(中村元 仏典のことば―現代によびかける知慧 (同時代ライブラリー) 122ページ)
「明治以後西洋の真似をしてから、日本人は大変残酷になった。これは取り返しのつかんことです」(白川静 文字講話Ⅱ200ページ)
司馬遼太郎さんとは何か、と一言で言った時に、それはそこを取り巻く論壇を含めて、明治以来の歩みを反省せずに戦争を反省したかのように錯覚させる「装置」だったと思います。
そしてその本質は、「果心居士の幻術」である。(←約一年半温めた表現)
分割致します。
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