途中からみましたけど今週の「らららクラシック」は面白かったですね。「管弦楽のためのラプソディ」は、ここから脱却しなくてはいけない、とか、いろいろいう人もいるんですけど、日本を代表する管弦楽作品として、これを超えるか同列に語られるのは、伊福部昭さんの作品など少数を除いてないと思います。
外山さんが言っていたように、八木節の力が凄いです。後ろでお客さんが食いつくように聴いていたのが印象的でした。
N響のヨーロッパ演奏旅行用に作られた曲で、きっとぱっと作ったんだろうと思うんですけど、ヒット曲が出来るときというのはそういうものだと思います(笑)
偶然にこの日の朝は、ようつべの外山雄三さんの交響譚詩を聴いていたんですけど、これは良い演奏だ、と唸っていました。是非誰か第二譚詩もアップしていただきたいと思います。
外国だと音楽的にもっともっとと求めてくるのに、日本では観客が、ほらやれよ、きいていやる、という感じだったというのも印象的な証言です。
率直に言って日本でのクラシックの消費のされ方は、非常に社会心理学的なアクセサリーのようなものだったと思うんですよね。
またそういう聴き方をする人が好む評論家、というのもいて、それは吉田秀和だったと思います。この前にも申しましたとおり、この人は人格と演奏の質を分けて捉えるのが特徴で、そこに人格を賭ける様な真剣さは存在しません。
文体であるとか、好みの傾向まで含めて、クラシックをアクセサリとして消費したい人がまったりと楽しめる要素が詰まっています。
この人が良く出す中原中也とかも宮沢賢治なんかと比べると、危険な不良っぽい雰囲気を感じるかもしれませんが真実は逆で、宮沢賢治のファンに何か狂った感じの人が多い一方、中原中也のファンは礼節を重んじる誠実な方々が多いのだそうです。これは宮沢賢治が内面に悪魔を飼っていたことに起因するのではないかということ((天才、生い立ちの病跡学(パトグラフィ)―甘えと不安の精神分析((講談社プラスアルファ文庫) 福島 章 (著)))。白川静的、高杉晋作的にいえば、狂狷の人だったといえるでしょう。
中原中也は尾崎豊系、といいますか、悪い意味でサラリーマンっぽい人が安心して消費できる文化材なのではないかと思います。
こういったことを演奏家の分野で担ったのはカラヤンで、彼の日本での人気は世界の中でみても飛び抜けていたようです。吉田秀和は必ずしも評価していなかったみたいですが、それも評論という分野との棲み分けに役立っていたと思います。
カラヤンはナルシストで有名でその病理を解説した単著まであり、私も読みましたが、ナルシストだったが柔軟性があったので破綻せずに済んだ、という内容でした。
このカラヤンのナルシシズムは当然演奏にまで影響を与えているはずで、そのナルシシズムと世界で最もよく共鳴できたのが、社会心理学的にクラシックを消費する日本の聴衆だったのではないかと思います。
カラヤンにしても長所はありますけど、とくにそういった要素に反応していたのではないかと思います。
90年代以降吉田秀和よりむしろ宇野先生の方が流行ってい(る気がし)ますけど、これはクラシックを音楽として消費しようとする人が確実に増えている事を示していると思います。宇野先生が良いか悪いかは別ですが。
私がブログのキーワードに宇野功芳先生と載せているのは、宇野先生をプッシュするというよりむしろ、こういった態度で音楽を聴いているという事を、分かりやすく報せるためです。
こういった状況をさらに改善していくには、形式を上っ面の知識で玩弄するのではなく、主体的に美意識を働かせて観賞する必要があり、一人一人が感性を練磨して、観賞にぶつける。作曲家・演奏家もそれに応えてさらにレヴェルアップして行く。そういった螺旋を積み重ねていく必要があり、昔日の文化力、日本の独自性がクラシックに付け加えられるものを考えた時、上手くやればこの分野で非常に良いを咲かせられる可能性があるのではないかと思うのです。
新聞によるとこの「らららクラシック」は敷居を下げよう、を合言葉に生まれたそうですが、最近のNHKは敷居を下げようとして失敗することが多いと思います。
典型は「ヒストリア」で、この前話した玉木文之進の教育の話を少ししていましたけど、恐らく司馬遼太郎の引用か、それの孫引きなのではないかと思います。
鉄舟が駿府に行く途中で匿われた、という話もやっていましたけど、かなり信憑性が薄い話だったように思います。また征韓論についての部分で、安部正人の著書から引用して再現映像を組み立てていました。
これは承知の上でしょうけど、甲斐姫の話も長々とやっていましたし、面白いエピソードを集めようとするあまりか、史実から離れていそうな話ばかり集めて安心してみられない番組になってしまっていると思います。考証をかっちりと組んだ上で、楽しさを出すべきで、敷居を下げるの意味を履き違えているのではないでしょうか。
許光俊の評論は同意出来ない部分も多いんですけど、とりあえず良い演奏をたくさん聴くことが重要だ、と書いており、これは同意できます。その分野を本当に楽しんでいる人が、その楽しみのさらに上澄みを一般の人に渡す。これが正しい意味での敷居の低さではないかと思うのです。
「敷居を下げる」番組で陥りやすいことに、疑問視されている既成概念をそのまま垂れ流してしまう事が多いことがあると思います。
アシュケナージが良いとか、アバド(アッバード?)は巨匠だったとか、そういうことばかりやっていたのでは、実際の音楽の楽しみから離れるばかりで、いつまで経っても敷居は低くならないと思います。
芸術の町フランスを特集するみたいですが、さっき引いた許光俊さんですとか、現地で良く聴くという評論家の人達によると、現代のフランスで支持されるのは派手で仰々しい演奏らしく、かつてのフランス風の音楽はなりを潜めてしまっているそうです。
そういわれてみれば、フランス風を代表する指揮者はだれか、といわれるとにわかに浮かばないのではないでしょうか。僕は音が軽くて好きではないんですけど、指揮者ではデュトワ、ピアノではルイサダが良いピアニストで、そういう雰囲気でいますけど、両方ともフランス人ではありません(^_^;)
そういう空々しい効果が幅を利かせた音楽が演奏され、聴衆の質の低下も著しいらしく、サルコジが大統領なのをみれば、そうだろうな、とも思います。
たとえば、そういうリアルな面からフランスをみて、問題意識を掘り起こせば面白い番組になるのではないかと思います。
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