東京国立博物館 平常展その2

#その他芸術、アート

原発の再稼動では、報ステのインタビューでは、これで夜も冷房をつけます、という話をしている人もいて、ピークが一瞬であるということすら伝わらないままで(テレビが伝えないままで)、勝手に議論が進んでいるのではないでしょうか。

コメンテーターの三浦さんは原発があると足りるような話でいっていましたけど、故障したり揺れたりすれば、停止する可能性は高く、やはり原発無しでの供給の計画は欠かせないでしょう。

橋下についてはこんなものだろうなぁ、という感想で、まぁ、民主党をみるまでも無く、一貫するっていうことは人材じゃないとできないんですよね。
安全が確認できないと再稼動できないのは机上の理屈、とのことですけど、いままでの再稼動無しで足りるという主張と整合性が無く、その矛盾についてもっと議論をするべきだと思います。
今までいっていた事をうわべだ建前だというのは政治家として以前に、人として容認できないことだと思います。

古賀さんは関西電力が計画停電を煽って企業に圧力をかけたといいますけど、市長自身は否定している模様。
もし古賀さんのいうとおりだったとしたら、それで意見を変えるほうも変えるほうですけど、その矛盾をテレビが明らかにして周知できなかったことが非常にまずく、繰り返された大本営発表、だったといえるでしょう。

モーニングバードでは、大飯の町長の企業は原発関連で過去六年間で四億円受注しているらしく、今は倒産寸前と報道しているとのこと。島田市の市長の話も少数にしか知られていないのが実情だと思いますが、こういったニュースももっと周知して貰いたいと思います。

振り返って考えれば、都のように大阪は自らの主導で火力の増設をしていたりしない、という話を聞きますけど、言われてみればその通りで、この段階で再稼動させるのは既定路線なのでしょう。
飯田さんからそういう批判が聞こえてこないのは、やはり配慮があるのでしょうか。

15パーセント足りない、といいきっていましたけど、それでは今までの大阪の主張はなんだったのでしょうか。ブレーンとの意思の統合は?

恐らく適当に突っぱねて票を稼ごうと思ったのでしょうけど、飯田さん等が意外と理屈でがんばれてしまったので、矛盾を抱え込むことになったのでしょう。

新自由主義の共通項で括れると思うんですけど、適当に対立軸を出して煽るといいますか、こういう風な作りこみ方がやはり、秋元(康)さんの手法に似ているんですよね。

枝野は13ヶ月動かすといっているそうで、その発表の時の面の皮の厚そうな雰囲気も加えて、海内無双の○○人間だと思います。

前回が最初の少しで終わってしまったので、行って参りました。

横目に見えるボストン展の列は50分待ちらしく、表慶館を超えて正門に到達しそうな長さ。これはすごいですねぇ。

出土品では「菩薩半跏像」が朝鮮産と思われる、深みのある仏像。
某有名な菩薩半跏像は最近まで顔がかなり壊れていたらしく、それを直した人がこの顔は俺が彫ったんだぞ、とよく自慢していたそうなのですが、その顔と較べると、やや表情に生身の年輪を感じさせるような所があるかもしれません。

仏画も沢山あって、良いのもあったのですが、やや状態が悪く、ボストンの貴重さがわかります。仏画は褪色しやすいですから、曼荼羅みたいにもっと連綿と写していって良いのかもしれませんね。

書では光悦の「和歌巻」が相変わらずの独特の美意識を感じさせるもので、まっさらな気持ちで観て伝わってくるものがあります。

「望岳賦」は佐久間象山が富士山を讃えたもので、これは恐らく日本の富士山を取り巻く言説を研究した「「鎖国」という外交」((全集 日本の歴史 9) ロナルド トビ (著))を読むと理解が深まるでしょう。勝海舟も色々言っていましたけど、やっぱり悪い意味でのあくの強さも持っている人ですよね。

氷川清話によると「漢学者が来ると洋学をもって威しつけ、洋学者がくると漢学をもって威しつけ」(講談社学術文庫版78ページ)というような人だったそうなんですけど、結局知識を問題を深めていくことではなく議論のために使っているわけで、こういう人って現代でも結構いらっしゃるんですよね。

たとえば、松岡正剛さんは色々な方面の知識があるんですけど、ただ惜しいのは、それを問題解決の手段であるとか、卓抜な知見を創出する為に使うのではなく、論壇の中で知識を隠れ蓑にするとか、盾にしてちょっと足を引っ張ってみるとか、そういう本質的ではない所で使ってしまうんですよね。
ほとんど知らないんですけど、友達の佐藤優さんにもそういうところがあると思います。

また文化にしても色々ご存知なんですけど、多様性の中に埋没してしまっている事があると思います。

芭蕉の笈の小文の序に「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。」とありますが、この「一」を探求する志向が薄くて、力強さや本質的な部分、社会での実用性から遠ざかり気味なところがあると思います。

また著作にしても、白川静さんの「孔子伝」(中公文庫BIBLIO) のイデアとノモスを対比した思想は、氏の思想の中でもとても肝要な部分だと思うのですが「白川静 漢字の世界観」((平凡社新書) 松岡 正剛 (著))には出てきません。これはイデアの探求というものが芭蕉のいう「一」の探求であって、松岡さん自身の「一」への探求への志向性の薄さが白川静さんの思想の重要な部分への共鳴を薄くしているんだと思うんです。

原発問題にしても、色々な見識を披露されるんですけど、方向性が見えてこず、これでは結局、社会に益すること薄くなってしまうのではないかと思います。そういったところが惜しい方だなぁ、と率直に感じた事を言えば思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52557353.html

浮世絵では岳亭春信の二作が素晴らしく、太田記念ではあまり観ない人かもしれません。大阪の絵を描いているので、いわゆる上方浮世絵の人なのかと思ったら、滞在歴があるだけで、江戸の人なのだそう。北斎の門人であるとのこと。

「天保山末廣橋月夜の図」が月夜に橋の下を潜っていく臨場感溢れる作品で、構図センスも抜群。
「大阪天保山夕立の景」は舟を飲む波、風雨に実に力があって、一目名品。
地味な巨匠なのかと思ったのですが、ぐぐるとこの二作が代表作らしく、他はどんなものなのでしょうね。

「夏」は磯田湖龍斎の春信風の作品ですが、独特のくねった曲線の構図で、春信美人ながら非常に暑苦しいものを感じます(^_^;)

「當世風俗通・町家の娘」など歌麿の大首絵もあって、描かれた人の顔を想像出来るような、良い作品。歌麿は鈴木春信と比較して、本人の顔に似せているのが特徴、と聞いたんですが、たまに似せていないと書いているものもあり、私の感じた事をいえば似せていると思います(笑)

広重が描いた「往古うハなり打ちの図」は噂の後妻打ちですが、笑っている人が多く、それがこの行事の本質を表しているように思います。タイムスクープハンターで真面目腐って、悲劇的な感じでやっていましたけど、少し違うような気もします。

率直に言うと、タイムスクープハンターは台本を書いている人に、歴史感覚が薄いのではないかと感じることがあります。ちょっと無理をしたドラマ仕立ても疑問で、無理矢理ドラマチックにしない方が良いと思います。

表情が硬いのも気になるところで、昔の映像を観ても、昔の人はもっと笑っていたと思います。

根付では「乗合船牙彫根付」が舟で寛ぐ群集を彫り上げたもので、凄い技術です。ただ実用性が怪しく、今日まで残っていたのがふしぎで、もしかしたらそもそも観賞用みたいに買う人が昔からいたのかもしれませんね。

「像牙彫根付」は象牙で象を彫っています。

同じく「鎖国」という外交」に江戸時代は貿易依存だったと書かれていますけど、根付等の象牙は最たるものでしょう。着物の絹もかなりのパーセンテージが中国産らしく、そういわれると観る目もエキゾチックな視点に変わってきます(^_^;)
そういう解説を能衣装・着物の展示でみたことがないのですが、常に横にカッコで付けておいても良い位のことかもしれません。

「男舞図」は女性物の着物を着ていますが、二本差しで帽子を被っています。性別は謎です。晴れの場になるとすぐに性別を乗り越えようとする癖が日本人にあるのは確かです(^_^;)

コメント

タイトルとURLをコピーしました