Bunkamuraザ・ミュージアム レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想 その3

#その他芸術、アート

原発再稼動ではNHKのニュースで国民世論を二分する、とやっていましたが、反対が賛成の二倍あり、国民の側につくために国民から直接受信料を徴収しているテレビ局が、東電の経営のため、原子力ムラのために世論を歪曲するのはやめてもらいたいと思います。
しかもそれをさらっ、といえてしまうのが、実は重症な狂気なんですよね。

司馬遼太郎さんは白いものを黒だというのが嫌いだ、といっていましたけど、氏の随筆について色々書いてきたとおり、これほど口でたやすくいえることは無いんですよね。
しかもこれは外側が白いから内側も白いと思ってしまう可能性があり、例えば漢方が必ずしもすべて科学的に解明できないからといって、中身まで非科学的(効かない)というわけではないわけです。

白川静さんは孔子について「だからいわゆる合理主義者でね、そういうものは不合理だ、という風な調子で片っ端から論理的に破壊していくという風な質の人ではなくて、それでいいならばそれでもよろしい、というぐらいのね、寛容というか、一種の随順的な気持ちがあったんではないかと思う。」(呪の思想―神と人との間 146ページ)と仰っていますが、この孔子に対置されている「論理的」(にみえる)人の典型が司馬遼太郎で、しかもそれは論理的ではなくて冷静に振り返ってみると、実は間違えていたのではないかということですね。

自民党の塩崎が菅直人リスク、とかいっていましたけど、本当に学生運動世代は○○ばかりです。原子力ムラの意向に沿う形で民主党を攻撃するいい方策を見つけたと思って、小躍りしたのでしょう。
菅直人にすべての責任を押し付けようとする動きには注意しなければなりません。

一方で、菅直人は脱原発を訴えつつも、大飯再稼動反対の署名はしていないそうで、ここでも口先だけでは何でも言う菅直人、というイメージを払拭できなかったと思います。

この署名には他にも、怪しげな名前が結構入っていますけど、ファッション的に名前を連ねているのではないかと感じさせる人もちらほら。

死刑反対派だったのに法相についた瞬間に執行して議論を呼んだ人もかつていましたよね。

この人は口ではこういっていますけど、いざという時になったら本当にその政策を実行する人なのか、という見極めの精度をいかに上げるか、ということが、日本の政治における緊急性のある重要な課題だと思うのです。

東電の電気料金値上げのニュースがありましたけど、TBSの6月6日の午後6時10分ごろのニュースをはじめ、やはり給料なんたらといった視点がほとんどで、解体売却をしてから値上げをするべきだという視点はみかけませんでした。
給料に視点を絞ってしまうと、ほーら身をきりましたよー、とかいいつつちゃんとたんまりお金をもらって、テレビは、なんとかなんとか疑問が残ります、という事をいって、アリバイ作りがてらにお茶を濁して、終わることができてしまうのではないでしょうか。

フジの6月7日の朝8時40分ごろのニュースでは、火力燃料増で東電大幅値上げ、とクレジットを出しながらニュースを伝えていましたけど、役員を元東電が勤めている局の悪質な誤報だと思います。

原子力ムラの他の人達に倣って、身内だからこそ厳しい報道ができるのです、とかそれらしくいってみれば良いのでは。

テレビでは三笠宮のニュースをやっていて、みんな親しまれていた、という文脈で取り上げていましたけど、ジャーナリスティックに取り上げると離脱の話など、面白い視点が出てくる人で、必ずしも美談調ではない報道もして欲しかったと思います。

6月2日には官邸前に2700人が集まったといいますが、テレビで伝えているのはみませんでした。本来なら緊急で中継するべき規模だと思います。

また「大清帝国と中華の混迷 (興亡の世界史)」(平野 聡 (著))には、「二十世紀中頃の経済史家ウィットフォーゲルは(中略)中国文明と漢人の社会は「アジア的な専制」の一つの典型であると述べた。」(73ページ)らしく、同ページに著者の反論が書かれており、さらに日本においてはむしろ庶民によるボトムアップ型の政策が江戸時代主流であったのは今まで書いてきたとおりです。

しかし、こういった偏見のもと「白人の責務」(236ページ)を掲げて民主主義を広めると称して植民地を広げてきたのが西洋なわけですが、暴力的な搾取のもと、その欺瞞と偏見は明瞭です。
こういった偏見が未だに払拭されていないばかりか、日本人の中にもこのような認識をもつ人が非常に多いです。

現代の日本はあらゆる業界が団子のように癒着しており、幻想の「アジア的専制」にも見まごうノモスの世界で、西洋の幻想に接続し、偏見に確信を与えて間違った認識へ導きかねないと思います。

BSの特集で海外ではこういうステレオタイプで福島原発問題のドキュメンタリーが作られているといいますが、無関心や、終始間違った安全を強調した報道を流し続け、デモを報道しないなど国全体が無関心であるかのように装わせるマスコミは、祖先の顔に泥を塗りかねないのではないでしょうか。

朝日新聞の5月5日の朝刊では「達成感無き「原発ゼロ」」として、「原発を止めたのは世論ではなく事故」という声を載せて、原発ゼロと市民運動を切り離しているのですが、文中にはデモをスルーした大手メディアの動向についての記事は無く、それでいて市民の力を矮小化して伝える、非常に厚顔な記事であったと思います。

市民の力を伝えない、矮小化する、という点で一部を除いた新聞・テレビは一貫していると思います。
そしてそれが外部的には、海外のステレオタイプの神話を強化する方向に働くわけです。そして自分たちは「文明」の側に立って、その外部的な目で共に神話をもとに嘆くという――――――。

こういうありかたが例えば経済では「アメリカだけが透明性の高い社会制度を持っているというのは、多分に誇張がある。」(新・反グローバリズム――金融資本主義を超えて 金子 勝 (著) 171ページ)と指摘されるような錯覚を国内においても生み、筋が通らず合理性を欠いたグローバリズムへの追随を産む、根本的な理由になっていると思います。

また、丸山眞男さんは「「爪の先まで武装し、一朝時あるときは直ちに戦時総動員体制にきりかえられるような統治組織と、反乱・暴動・内乱などのあらゆる萌芽をいちはやく摘みとるように網の目のようにはりめぐらされた(相互監視と密偵の)メカニズムをもって」人民を支配した国家」(全集 日本の歴史 別巻 日本文化の原型  青木 美智男 (著) 44ページ)といっていたそうですけど、これは欧米の「アジア的専制」論を取り込んだものといえるでしょう。

最近は江戸時代は柔軟な統治機構であったが故に長く続いた、というのが一般的な説になっているようです。
「政策に民意を反映させる独自の制度をつくりあげたからこそ、徳川政権は260年もの間、安定的に維持されたといってよい。」(開国への道 (全集 日本の歴史 12) 平川 新 (著) 19ページ)のだそうです。

もうひとついうと、同シリーズの「文明国をめざして」 (全集 日本の歴史 13) 牧原 憲夫 (著))では明治以前の民衆の状態を福沢諭吉の「客分」という言葉で表していて、以後と区別しています。この言葉を軸にこの巻は組み立てられているのですが、こういう風に断絶を設定してしまうと、同シリーズ12巻などで説明してきた民意吸収システムを現代のなかに受け止めて生かしていくことができなくなってしまうのではないかと思います。当時の地域リーダーの行政への参画や人材登用をみていったときに、客分として括るのが本当に正しいのか、再考を要するのではないかでしょうか。

この13巻は凄く面白かったんですけど、明治を批判するからこそ、江戸時代主義に陥らないように注意が凝らされている作品で、私としてはもっと近世を積極的に評価して現代に生かしていく視点が欲しかったと思います。

現物は無くとも弟子などが写したものが残っているというのがかなりあって、その巨匠なのに幽かな残り方は王羲之を思わせます。
「幼子イエスと洗礼者ヨハネ」はダ・ヴィンチ工房の作品で、二人とも子供です。仏像でいえば誕生仏のようなものでしょうか。違う所も多いですが、子供の扱いには東西に共通したものもあります。

本人が構想した作品として「裸のモナリザ」がいくつか並んでいました。
その次の「レダと白鳥」はかなり良い構図で、いななく白鳥をなだめるレダの姿が甘美です。

一方ミケランジェロの「レダと白鳥」の写しもあって、こちらの本物は卑猥だということで燃やされてしまったとのこと。「最後の審判」にも裸だというので布が描かれたりしていましたけど、裸を描くのが大好きな故に受難に遭う事の多い作家です。こういったエピソードの時代を調べることで、最初の方に書いた「文明」の進行状況が計れるのかもしれませんね。
作品自体は布の勢いのある質感などに、ミケランジェロの片鱗を感じさせました。

やはり同時代の他の作家と較べて不思議なほどに際立つ作家で、構図センスも筆致も光彩陸離として渋みがあります。画家としてのダ・ヴィンチがよく感じられた展覧会でした。
企画も、遠くからいらっしゃった作品も、お疲れさまでした。ありがとうございました。

帰りにタワーレコードで「風とロック」を手に入れようと思ったら、大島さんの一位を祝う張り紙が出されていました。

総選挙はちらっとみました。まず、あれだけのエネルギーが集中している場で、立てている事自体が凄いと思います。
こういうのは冷めてみているほうなんですけど、時間が経つと自然に身体がジーンとしてくるものです。おめでとうございます。

ただやっぱり、競り合う相手がいないのは、グループ全体にとっても、大島さん自身にとっても、あんまり良いことではないですよね。

MJのスイカの会話は日常会話風でしたけど、大島さんがいると閉じた内輪の会話にならないで、微妙に緊張感が出るのが良いところだと思います(^_^;)

大島さんのあんあんもとても格好よく撮れていたと思います!こういった変わった服でさまになるのは大島さんならではではないでしょうか。

骨盤が閉じたタイプは集中力がある、って整体ではよく言いますよね。まえから頑張りが利いてしまうのが、大島さんの、半分くらいかわいそうなところだなぁ、と思って心配していたんですけど、特に大きなアクシデントは無かったみたいで、良かったです。
ごれからも適度に身体をいたわりながら、どうぞどうぞ。

そして「風とロック」を無事に入手して読んだんですけど、内容は綺麗で安定しているんですけど、やっぱり全体の印象が少し薄いといいますか・・・・。
むしろ箭内さんに気持ちよく喋らせていたと思います!

Mステの柏木さんは、しゃぶしゃぶの話とか良い感じでしたけど、やっぱり大島さんの怪獣の話みたいに、もう少し何かひっかる所があるともっといいのかも。無理矢理そういうのを作っても良くないですけど、もとがバランスが良い人ですから、何かはみだしとか、変化があるともっと大きな人気に繋がっていく可能性はあるのかなぁ、と感じます。

緊張しているようにもみえるんですけど、喋りがとてもしっかりしていて、なんとなく周囲にすがすがしい雰囲気があるのも良いところだと思います。

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