サントリー美術館 歌舞伎座新開場記念展 歌舞伎 -江戸の芝居小屋- 第2展示期間 その2

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「朝鮮人「虐殺」消える 関東大震災の副読本 東京都教委」(http://www.asahi.com/news/intro/TKY201301240488.html)ということもやっているようですけど、歴史を率直に見つめない国に未来はないといえるでしょう。
こういったことを正面から見詰める度量の無さが、否定したい衝動になり、攻撃性に転化していると観察する必要があります。それは実はコンプレックスの一形態であるといえるでしょう。

前にも取り上げた「大手金融に天下り 福島原発事故当時の経産次官ら」(http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201301200436.html)は朝日新聞新聞記事ではいわゆるベタ記事で物凄く小さい扱いなのですが、これはここ一年の最重要ニュースといって過言ではありません。

署名は小森敦司記者で、質量ともに僅少ながら原子力ムラ的な記事は大体この人の担当になっていて、飯田哲也さんはかなり信頼されているもよう。大した事をしているとも思わないのですが、この人に押し付けて尻尾きりをすることは可能なのでしょうね。

総じて朝日の原発に関するニュースは腰が引けに引けている、ということがいえるでしょう。

1月20日の朝日新聞のスポーツ欄では大鵬がなくなったということで各界からのコメントが書いてあるのですが、その中に海老沢勝二の名前が。
モラルハザードに対する眼差しの弱さがこういったところにも表れているのではないでしょうか。そしてそれは報道機関としては持ってはならない感覚なのです。

しかしこの元会長の長男は東電に勤めているんですね。知っている人はお金が落ちてくるところを知っているということでしょう。
本人は本人ですけど、つながっているのは問題とも言えますし、NHKの会長としてのジャーナリスティックな視点があったら、入れさせたくない会社ですよね。
次男はコネ入社が濃厚がなNHK勤務だそうですし、本当にどす黒いと思います。

テレビで連日大きな時間を割いて伝えられていた、イタリアの地震学者が裁判にかけられた話ですが、続報が無いなと思っていたら、新聞によくよく目を凝らしてみると、1月19日の朝日新聞に小さなベタ記事で「政府との癒着を厳しく指弾 伊地震学者への有罪判決理由」(http://www.asahi.com/international/update/0119/TKY201301190047.html)という記事が。

原因を推測してしまえば、過度な責任追及を戯画化して伝えようとしたら、メディアと政府と学者の癒着というどす黒い裏側が出てきてしまったので、ぱったり報道をやめたのでしょう。見出しも良くみると、癒着の三角形のうちの報道機関だけが書かれていません。報道しない自由ということが言われていますが、とても一貫性を欠いていると思います。

「認可保育所不足問題 足立区でも母親動く 集団異議申し立てへ」(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013022502000119.html)ということで、日本がだんだんデモ慣れしてきたような気がします。

大田区でも同じようなことが起こっているらしく、荒川強啓さんのデイ・キャッチで山田五郎さんは、大田区では工場が潰れた跡地にマンションが続々建っており、保育所が足りなくなるのは馬鹿でも分かるとのこと。

日本は20世紀後半に民主主義が後退した所があったと思うんですよね。

例えば障害者行政では要請行動といって養護学校ごとに都の職員に直接要請しに行く場があったんですが、石原都政になってしばらくしてから無くなってしまったんですよね。

こういう責任者に直接かけ合うのは江戸時代の世論政治からの伝統であるわけですが、選挙はあるのですけど、デモ(一揆)であるとか、そういうもう一方のルートの民主主義的な手続きが大分衰えていたと思うんですよね。

そういったところにスイッチが入りつつあるのではないでしょうか。

最近ネットであるとか、ゲームの宣伝をみていて目や耳に付くのは「狩り」という言葉で、昔なら熱い戦い、とかそういう言葉で客寄せをしたと思うんですよね。

「狩り」と「戦い」の何が違うかというと、戦いというのは同等のやり取りなのに対して、「狩り」はすでに間合いが壊れている。一方的であるということが前提なんですね。要するに間でやり取りが無い。

つまりコミュニケーション能力は要らないので安心ですよ~という広告であると解釈できる。

逆にコミュニケーション能力のあったかつての時代であるなら、そういうものを使える場がなくなるために逆に広告として魅力がなくなるんですよね。

そしてこのコミュニケーション能力の衰えはいじめの構造と深い関わりがあるといえます。

もうひとつは、自分の身体に危険を伴う身体性を持った緊張感が無いということで、そういったものを忌避する脆弱性が社会に広がっているのでしょう。

2月19日の朝日新聞の片山杜秀さんの体罰論考は爆笑もの。要約すれば体罰は明治以来日本人が無理をしてきたことの象徴ということでしょう。最近は私は韓国と比較する文章を書きますけど、やはりこういった近代のマイナスを取り除くという点で遅れている面も目立ちます。その背景にはアジアで一番最初に近代化したというプライドが一番大きく関係していると思います。世界はすでに次のステップに移りつつあり、それは最早時代遅れであるということを悟らねばなりません。

ただ、韓国は科挙の伝統と接続した形で学歴社会が結びついているので、ここの弊害は取り去るのに苦労するのではないかとみています。

家々には神話があってそれが重要だ、という事を名越康文さんがいっていたのを聞いたんですが、この前のアルジェリアの事件のリーダーでこの前殺害されたベルモフタールの話しを聞いたときにそのようなことの影響の強さを非常に感じました。

国家でも同じことで、正しい自画像を描いて、上手く未来につなげていくことが急務だと思います。

しかしたしか片山さんは暁星だったはず、と思って調べたらやはりそうでした。小学生の頃に教師に耳を引っ張られたりしたそうですけど、カトリックの規範意識、というのが地球規模でみたときに体罰のひとつの源流なのかもしれませんね。

この記事には「戦後、日本から軍隊は消えた。しかし暴力的指導の伝統はどうやら残存した。」とありますが、私は他にも残存したものがあると思います。それは「滅私奉公」です。

戦前の「滅私奉公」は戦後になっても、表向きに中心から天皇を消しただけで、司馬遼太郎さんのいう「無私」と「公」という表現になって生き残ったんだと思います。司馬遼太郎さんのそれぞれの言葉に対する曲解は、戦前の曲解された「滅私奉公」の概念とぴったり重なると思います。

現代のおかしいと思ってもシステムや集団に対して声を上げない状況のもとになっていると思うのです。

そしてそういった傾向はさらに強まっている。これこそが白川静さんが忌避したノモスそのものなのだと思います。

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