戸栗美術館 鍋島焼展- 孤高の鍋島藩窯 - 後期 その1

#その他芸術、アート

棋王戦第4局はそれが成立したらおしまいよ系の、変わった手が出ましたので、久しぶりに「新版角換わり腰掛銀研究」を取り出してみたんですけど、どうも書かれていないですね。
旧版で同型の佐藤新手の部分がさらっとすっとばされていたので、新版でフォローがありましたけど、新手の余地がある部分というのは、あんまり考えないで飛ばしてしまう傾向があるということでしょうか。

3月26日のモーニングバードでは自転車の事故で麻痺になったというニュースをやっていましたけど(http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00242821.html)、自転車のメンテナンスには気を付けなければいけないという論調。
即座にコメンテーターの人が言っていましたけど、サスペンションなど気にかける人はまずなく、メーカーの全面的な責任だと思います。この人は特に自転車には気をつけていたはずの人なのです。

それで思い出すのは、食べるものには気を使うのに、自転車の安全性は気にかけないのか、という自転車のテレビCMで、どうも無理矢理その文脈に押し込んで放送しようとしているのではないかと感じるのです。

自転車メーカー側の責任を使う側に転嫁してる、おかしな報道だなと感じます。

そのころ裏番組では福井の恐竜博物館を取り上げていましたけど、滅茶苦茶豪華なつくりで、原発マネーとの関連を思わずにはいられません。そのような掘り下げ方をするのが、テレビの責務ではないでしょうか。

福島第一での女性に対しての求人広告が話題になっていますけど、
(
http://jp.indeed.com/cmp/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AF/jobs/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E7%99%BA-%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%B0%B1%E5%8A%B4-cdd3b79212a35070)もう、廉価で使い捨てにするには女性しかないと思って、禁断の広告を出したものでしょう。
福島は国の中心課題でそこでの作業員のあり方は重要です。首相はこういったところに責任を持つべきだと思います。

「原発教育:「主婦中心」の人形劇団 団員全員、東電と関連」(http://mainichi.jp/select/news/20130325k0000e040214000c.html)はもはや何でもやる、といった感じで、週刊朝日の人形峠の内部資料は原子力ムラの全貌を局所的な形で示したものなのでしょう。
しかし、テレビで報道されなければ、こういったことも、「なかったこと」になってしまうのが現状です。

人形劇の内容をみてみると、原子力がなければ電気がなくなる、貧乏になる、というお話で、この前お話しました「貧乏神話」をなぞるものだといえます。

震災以前も原発危険だと思っていた人は声にださねど結構いたと思うのですけど、貧乏になるという意識・周囲からの罵声によって意見を封印せざるを得なかった人が多かったんだと思うんですよね。そしてその状況は事故後も実は余り変わっていません。

安全神話以上に、こちらが核心である、という手応えを深める今日この頃。

また、この人達の教養では実際の江戸時代は書ききれない、かすりもしないだろうと思います。

3月27日の吉田照美さんのラジオでは岸博幸さんが出ていて、企業の経営者が自分たちだけ既得権を囲い込んで社員は切りやすいようにする。経営者として新しいことは何もやらない、と嘆いていましたけど、それは新自由主義の不可避の帰結であって、ご自身の責任でしょう。マッチポンプなのではないでしょうか。

新自由主義というのはお金が無いと自分がどうなるか分からない世界ですから、猫も杓子も既得権を囲いはじめて、一方で、搾れる所からは搾り取る。労働者を使い棄てるようになるんですよね。
そして企業体としては、冒険をして失敗をするとどこまで酷い状況になるか分からないので、新しい事をやらなくなる。

何で政府がそういう事をしているのかというと、世襲の自民党員が大きく推進にかかわっているように、狙ってなのか自然にそこに行き着いてしまうのかは分かりませんが、結局目的は既得権囲い込みによる階級社会化だと思うんですよね。世襲によって利益を得ている人達がそれを保とうとするにはそれをやるしかないんですよね。やはりその点、小泉は典型であるといえます。

柔道連盟が会見を開いて、山下が北田典子と呼び捨てにしましたけど、この場合は有識者会議の外部の人間であって、敬称をつけるべきだったでしょう。

しかし、執行部を批判する了徳寺の人であるとかも、本当にうさんくさい風体で、こうなると権力争いの匂いしかしませんね。
変わる際は女性の大量登用も含めて、根本的な改革が行われるべきであって、既成の順番で回らせることはしてはならないという事を批判する側も肝に銘じるべきであるといえます。

前回論語の

邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。

という言葉を引用して思い出したのですが、よく許光俊とその仲間達であるとか「しねしね団」の話をしたりしますけど、その骨子はすでにこの言葉に含まれているんですよね。そういった問題を考えた上で、どのような態度をとるべきかまで、論語の中で、色々な項目で懇切丁寧に説かれています。

武道界なんかもそうなんですけど、一度古典を咀嚼するという段階を踏んでいないがために、昔からすでに考えられている事を、新しい要素であるかのように、そこら辺から引っ張ってきたり、変な言葉を作ったりして言い立てる、ということがあります。しかも古典というたたき台を経由していないがために、その思考の射程が短いんですよね。しばらくの間、思想的に貧困な時代があったのではないかと思います。

といいますか、新興宗教的なチェリビダッケ教としての、音楽評論とかぶる引用のしかたですよね。そういう意味では実は違う問題なのかもしれませんが。人生の課題として向き合うというよりはそういうごまかしですよね。
後述するんですけど、あれもふわふわした人が引っかかりやすい音楽なんですよね。ネットをみるとアイドル好きな人でも好きな人が多いみたいですけど。

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