東京国立博物館140周年 特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」その3

#その他芸術、アート

行って参りました!

最初に置いてあった「賓頭盧尊者坐像」は人の手に触られて、なれててかてか光っている仏像で、根付や唐津焼と同じような成長の過程を経ています。やはりすべてが脱落したような表情、たたずまいが印象的。なんでも資料によると、心が素直で無い人には彫ってあげなかったそうで、そんな円空自身の人柄が仏像には良く込められています。

横に行くとすぐに、高い木を割ったような、「護法神立像」が。
観ると突然微妙に体がゆらぎだしたのですが、非常に高いので、像がバランスを取って立っている様に観え、私の身体もそれに感応してバランスを取り始めたのでしょう。木の持つ垂直性を芸術的な感動としてそのまま生かしているのが円空の面目躍如だと思います。また仏教は禅宗を始めとして非常に姿勢を重視します。そういう仏教的な感動も込められていることも見逃せません。

鉈目から木の生命力がダイレクトに伝わって来るのも素晴らしいです。日本仏教の物を生かす思想が究極的に体現されています。

横の人がトーテムポールみたい、と呟いていましたけど、これをみた人が誰もが思う感想でしょう。

トーテムという言葉をあんまり厳密に考えていなかったのですけど、調べてみると、動物の神様限定のようですね。トーテムポールなどから言っても、祖霊のようなものも含まれるかと思ったのですけど、そうではない模様。
人や仏と動物をわけることに私は余り意味を感じないのですが、西洋的にはそういう分類が重要だということでしょうか。

トーテムポールはトーテムの分類から外れる、とのウィキペディアの文章。そういう大雑把な命名からいうと、西洋の人がなんとなくその他の地域の習俗や信仰をまとめて表したのがトーテムのような気もします。そういう文脈の中で動物を分離する必要があったのかもしれません。

円空の場合は何でも彫っていて、仏師という肩書きでは少し限定されすぎているというのが率直な感想。それとも仏ということばの範囲が現代よりやや広かったのかも。今なら精霊師というような肩書きが良いでしょうか。

「不動明王立像」は猛烈な迫力がある仏像で、厳しい表情の中に優しさが感じられます。目が釣りあがり、眉間に皺が寄り、口角が上がっています。鱗のような変わった装飾も見られ、何も彫らないと寂しいから彫った感じなんですかね?この仏像など、拝んでいる人もちらほら。

「両面宿儺坐像」は本展覧会の呼び物のひとつで、非常に丁寧に彫られています。日本書紀では悪者として描かれているが、千光寺の周辺では救世観音の化身であると伝えられているらしく、大和朝廷に服属せずに滅ぼされた地元の豪族だったのだろうとのこと。

厚く信仰されている地元の英雄を威風堂々とした姿で彫り上げていて、斧を持っているのも、王の文字の字源はまさかりである、という白川静さんの説も思い出され、族長としての威力を感じさせます。

ちなみに日本書紀に書かれている姿とは違うらしく、地元の伝聞を元に彫ったのか、とのこと。伝承と呼べるか呼べないか位の噂があったのでしょうか。

表情は非常に厳しいのですが、何か楽しい。厳しい楽しさ、というのが円空仏の魅力のひとつでしょう。

「菩薩立像(神像)」の解説によると、菩薩形の神像も多いのだとのこと。「難陀龍王像」は八大龍王の化身なのだそうですが衣冠束帯の人間の姿。化身することができるので、何を彫っても仏(神)様、といった感じでもある模様。

「不動明王および二童子立像」は矜羯羅童子と制多迦童子という二童子を従えており、不動明王は木の外側を、二童子は木心の側を使って彫っているとの事。それぞれ、荒々しい迫力と、柔弱さを出すのに上手く生きています。

「三十三観音立像」は31体あり、元は50体以上あったとの伝承もあるとのこと。病人の枕元に置く風習があり、それで自然になくなっていってしまったとのこと。
眉毛と目が同じ横棒で彫られています。

「金剛力士(仁王)立像 吽形」は立ち木にそのまま彫ったものらしく、原形はかなり崩れているとのこと。巨大な頭はちゃんと残っており、その姿は密林からいきなり姿を現したメソアメリカ文明の遺跡のよう。
日光の中禅寺の千手観音が立ち木に彫られており、円空はそれを観て彫ったのだろうとのこと。

「金剛神立像」は丸太を4分の一にして彫ったものらしく、木の使い方に無駄がありません。

昔ちらっと聞いたもので、非常に感銘を受けたのが、日本料理とは材料を残さない料理のこと、というテレビの料理人の方の言葉で、それは日本の思想だといえるでしょう。
そんな日本料理が成立した時代の仏像なのだ、ということなのだと思います。

節などを効果的に生かしたものが多く、最小限の作意で最大限の効果を上げているものが多いとのこと。
木本位の仏像である、というのが円空仏の大きな特徴です。

「稲荷三神坐像(男神形)」は結構あって、穀神であるとのこと。

「千手観音菩薩立像」は丁寧に彫られていて、指の彫りなど滑らか。下に謎の僧形の像がついているのですが、それも千手観音の救済の手段であるということでしょうか。

「聖観音菩薩立像」はよくある名前が特定しにくい円空の像の一つらしく、菩薩らしからぬ厳しい顔をしていますが、円空にはそういう菩薩像もあるから菩薩像であろうとのこと。

「龍頭観音菩薩立像」は頭の上に巨大な龍が乗っていて、大胆。他の展覧会では良くみる形式の円空仏でもあって、木をそのまま使うのであれば彫ってみたい形でもあるでしょう。

「薬師如来立像」はセットの他の像よりやたら大きく丁寧に彫られていて、当時の人の病気平癒の願いが表れているのではないかとのこと。

「十一面観音菩薩立像」は実際は六面で、しかも皆同じ顔。

「今上皇帝立像」など他では余り聞かないような仏像の種類が多いのも特徴。これも烏帽子をかぶっています。

「歓喜天立像」は7年に一度公開される岐阜・千光寺の秘仏とのことで、まさに循環するかのように二像の一体性が表現されています。

展覧会中話をしているカップルがいて、女性側の方が、修験者っぽい、という話をしていましたが、解説VTRをよくよく聞くと、まさに修験者であるという紹介をされています。
この時代の修験というと「病いの世相史―江戸の医療事情 」(田中 圭一 (著) )に描かれている、医療技術などを備えた人達のイメージが強いのですが、円空にもこのような技術があったか、もしくは仏像を彫る人であるとか、職分によってやることが違ったのでしょうか。

また、何で彫ったのか、という話もしていましたけど、祖師西来の意。もしくは、芭蕉の「ながき日も囀りたらぬ雲雀かな」。この時代の「自由」という字には、おのずから、というルビが振られていたそうですが、そういう感じで彫っていったのだ、というのが綺麗ですし、実際そういったところなのだろうと思います。

ただ円空自体が病を患っていて、それを治すために彫り続けた、という伝承もあるそうですが、病を患っていたには足跡が壮健すぎますし、それなりに生きたような気もします。ここらへんは病の種類にもよるところでしょう。

12万体作ったといわれているが、現存するのは5300体程とのこと。

瀧行をして「是に廟あり即ち世尊」という声を聞いたらしく、この世に存在するものすべては仏の化身である、という意味であると解説されていました。
ニュアンス的にはどうなのでしょう。いわゆる大日如来のような汎神論ではなく、むしろ八百万の神的な認識なのではないかと感じました。形而上的なものではなく、すべてに込められた自然の息吹きに仏を感じたのではないかと感じました。

「狛犬」は渦巻きの集合体のような面白い造形。

ひとりひとりに小さな像を作っていたらしく「如来坐像」そのような一体で、結構丁寧に彫られています。

「弁財天立像」は実にふくよかに彫られています。

「柿本人麿坐像」はうすいのに立体的に彫られている、と解説にあり、横に回り難い展示なのに、私を含めて横からみて確認しようとする人が多数。解説との兼ね合いで言えば安全に横に回れるような配置にするべきだったでしょう。

自然の息吹きが詰まっているが一大特徴で、会場を回っていく間にも、次第に清々しい空気に包まれているような感覚が強くなっていきました。こうやって感想を書いている間にも、飛騨の森林の中にいて息をしているような気がしてしかたがありませんでした。

これだけ色々美術展を回ってきましたけど、それでも、毎回といっていいくらい、非常に違った種類の大きな感動を受けるのですが、今回はその中でも際立ったものの一つといえるでしょう。美術の世界、日本美術の世界の奥深さですし、底知れない豊かさを感じるのです。

遠い飛騨からお疲れさまでした。ありがとうございました。

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