網野善彦・司馬遼太郎・自明性・解体・愛国心・歴史修正主義

今週は国民栄誉賞のニュースばかりが流れましたが、政権が喫緊の課題をごまかし人気の浮揚を計る為のものであるといわれています。避難されている方が棄民状態で放置されている時に、このようなことでこれほど騒いで良いのでしょうか。あまりにもニュースでの時間の割き方がおかしいと思うのです。

5月4日のサンデーモーニングでは、「燃料費の増加」が赤字の原因であるという東電の主張をそのまま流す一方、原発が無い沖縄電力と水力が多い北陸電力は黒字である、とし、並べてみると文章に整合性が無いように思います。

トルコに原発輸出をするというニュースが流れましたが、トルコは世界有数の地震国です。そのようなところに輸出することが果して許されるのか。メディアが問題にしないのはとても異常なことです。

3月22日の朝日新聞には鳩山のインタヴューが載っていましたが、インタビュアーのまとめのコメントに「すべてを鳩山さんのせいにして清々するのではなく」とあり、否定の中には肯定が含まれているのことばの通り、インタヴュー中のインタヴュアーのコメントを観ていると、すべて鳩山のせいに出来ると半ば考えているといえます。

これがおかしなことで、政策を180度翻したのは菅や野田で、彼らではなく半分は理念を実行しようとした鳩山に責任を求めようとする思考が理解できません。

ネットの雰囲気にインタヴュアーが毒されているのか。

朝日新聞の論説を振り返ってみると、自民党的な政策に逆戻りした菅直人には好意的であり、いくらマニフェスト違反を犯しても(原発に懐疑的な発言をするまで)叩くことはありませんでした。

実は財界や政府中枢とずぶずぶの関係にある朝日新聞は自民党的な政策を本音では支持しており、それをかき乱した鳩山にすべて民主党の失敗の責任をかぶせようとしているのではないかとおもうのです。

朝日新聞の民主党批判の型は決まっていて、理念倒れだったというものですが、菅以降が国民との約束をすべて反故にし、まったく理念を捨て去ってしまったことが失敗の原因であるといえます。鳩山もこのような批判の質問を向けられると半ば肯定してしまうのですが、そのようにしっかり批判し返さないのが良くないと思います。

前回網野善彦さんの「鬼子」発言を取り上げましたが、「爆問学問」ですとかをみていてもたまに登場されるんですけど、戦後の日本には戦前の色々なものを解体する学問をなさっている人がいるんですよね。日本の心は本居宣長が作った、と主張される子安宣邦教授が出て、では宣長が言葉にする前にその日本的な精神は本当に存在しなかったのか、と爆笑問題と議論になっていましたけど、この人は戦前の「日本の心」を解体した人でしょう。私はやはり宣長以前から、どれほど隔たるものがあったかは別として、似たようなものはあったのだろうとは思っています。そうであればこの言説は解体しすぎであったといえるでしょう。

私が良く取り上げる司馬遼太郎さんは、戦前の日本人の精神性・身体性を解体したと思うんですけど、かえってそれ以前の優れたところまで完全に失って悲惨なことになったと思います。

そういった知識人群の中で、「日本」という国の自明性を壊そうとしたのが網野善彦さんだったと思います。

「「日本」とは何か」(日本の歴史00 (講談社学術文庫)網野 善彦 (著) )の解説で大津透さんが書くには、日本号成立以前に日本はないというこの本の主張を受ければ、このシリーズで考古に2巻を割いたことは矛盾していたと反省している、とのことで、考古時代は「日本」はなかったという考えで、大津さんも文中で疑問を呈されているとおり、いくらなんでも断絶を設定しすぎていると思います。

やはり古代から日本的なまとまりの中で日本的な何かがあって、風土と強い繋がりを持った精神なり習慣などを爛熟させていたと思うのですよね。網野史学はそういったものにもとづいた健全なナショナリズムを個人個人に形成させる機会を奪ってしまったのではないか。その空白に忍び寄る形で歪なナショナリズムが個人個人に寄生しているのが今の日本の「右傾化」の本質ではないかと思うのです。

それを思うと、この前引用をした「鬼子」の批判は非常に皮肉で悲しいもののように思うのです。

また外交的な考えにも疑問符が付く所があり、例えば日本海について「海に「日本」という国号を付したこの名称は、決して適切ではなく、将来、再検討される必要があると考えるが、当面、便宜上この名称を用いる。」(日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書) 網野 善彦 (著) 7ページ)とありますが、この海は韓国と名称についてもめています。

純粋に地理学的な発想で言えばこういうことがいえるのかもしれませんが、実際に日本政府がこのようなことをいった場合、当然喜んで改称しようという動きが韓国で起きると思われます。

韓国では本来は東海という名称だったのを日本が近代における政治的な優位を利用して日本海という名称を国際的に認めさせたと理解されています。それは日本で出版されたいくつかの研究・本で否定されており、私も近世以前から日本海という名前が国際的にも一般的であり、上のような韓国の主張は事実無根であると考えています。

しかし、日本が日本海という名称を放棄したとすれば、韓国の人達は学術的な措置とは思わずに、上のような韓国の長年の主張が認められたものと解釈するでしょう。国際的にもそのような誤解を招くのは必至だといえます。

もし、もし韓国の人が一人残らず、上のような事実無根の認識を持つことがなく、永劫持つこともない、という状況になったら、名前を見直す余地ももしかしたら出てくるのかもしれませんが、そういう状況になるということはありえません。

また、さらにこの問題は他の多くの誤解と陸続きになっています。そういったものが解決しない限り、ここで妥協をすることはできません。

現在の政治的な状況からいって、日本海という名前を見直そうという姿勢を日本がみせるのは外交的な不利益を生むと思うのです。

こういったことや、前に話した司馬遼太郎さんの外交感覚は(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/51670555.html)、日本としての主体性に欠けるがゆえのひ弱さがあり、それによって国に不利益をもたらす可能性があったと思います。
そしてその偏りが、外交関係でパワーポリティクスを強調する歴史修正主義のグループに付け入る隙を与えたと思うのです。

網野善彦さんもまた、司馬遼太郎さんと同じく歴史修正主義とコインの表裏にあった、ともいえると思います(http://blogs.yahoo.co.jp/ffggd456/52137462.html)。

もちろんパワーポリティクスを前面に押し出したところで日本に国益がもたらされるわけではなく、そのためには真の意味での中庸の外交を展開する必要があります。
日本としての立場を貫きながら世界平和を希求するという態度が必要でしょう。

網野さんの学問成果は、遊女についてなど具体的に疑問を呈されているものも多いですが、やはり無理があるところも多いのだと思います。
日本はあらゆる学問がこういった解体の期間を抜け出し、真にバランスの取れたものへと収斂されるべき時にきているのだと思います。

司馬遼太郎さんはむしろ日本の一体性を強調した人だとされていますが(沖縄への態度などにも良く表れている)、こういうちょっと変に無国籍な姿勢ですとか、エノセントリズムとしてナショナリズムを十把一絡げで否定する所や、国際的にルールがあってそれに則るべきだという、外交関係におけるパワーポリティクスを度外視したような考えは非常に似ているんですよね。やはり時代の精神だったということだと思います。

この二人の日本への眼差しは違うレヴェルで日本人全体の日本への眼差しを表しているように思います。
風土に根ざした日本人としての自覚、自然な帰属意識は後退した代わりに、制度的・政治的には一体性が強調されたということでしょうか。

自然な愛国心が衰える一方、片山杜秀さんが仰るような「犠牲のシステム」に代表される、国民が国にあわせる仕組みは戦前から残留し、強化されていったということがあったのだと思います。

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