行って参りました。
両国の回向院は江戸時代に勧進相撲が行われいたことで有名な場所。
当時お寺の境内では様々な催し物が行われていたらしく、江戸時代には同じ土俵で女相撲の興行もずっと行われていたと、この前引用した論文にはありました(相撲における「女人禁制」の伝統について(http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/933/1/59-1-zinbun-06.pdf)。こちらの伝統についても名残があるのが、お寺としての平明な歴史の残し方だと思います。必ずしも男性の相撲専用ではなかったのですが、今日の境内の色々なものを見ていますとそちらの縁のお寺ということで特化しすぎているようにも思います。
女性が土俵に上がってはいけないという創作がされたのは明治ですが、それでも蔵前にいた頃までは表面的にはそのように権威付けしながらも実際はそこまでうるさく言われなかったらしく、最近さらに変な権威化への道を辿っていることが確認できます。
社会の硬縮化の現れであり、いじめ・体罰・権威化・八百長と、すべて同一線上で理解するのが正しいといえます。
(ただこの論文中、仏教と神道のうち、何故神道を採用したのか、ということについて詳説されていますが、例えば宮大工は江戸時代に寺社番匠と呼ばれていたのを明治になってからそのような神道風の名前に改めましたし、お寺でも無理矢理神社になったものが多数あります。
明治という時代において神道を採用するのは当たり前であって、仏教を称することは脳裏にもかすめなかったのではないかと思います。)
境内には相撲取りだけならず相撲記者を顕彰する碑もあって、読んでゆくと将棋記者との兼業で有名だった田辺忠幸氏の名前があったので、本当に相撲記者だったのだなと確認した次第。
最初のフロアにあるのは善光寺の本尊を模したもので、そこから五色の綱が結ばれていて、正面の回向柱などに達しています。その回向柱を触ることで、仏と縁を結ぶ、ということで、仏教というと信仰ということになりますが、頭ごなしに信じます、というのではなくて、仏様と縁を結んでその中の一員としてして生活する、というのが広くある形態です。そういう状態に正しくなれればあんまり悪いことはしませんからね。回向院は浄土宗ですが、浄土系などは特にそういったものの典型であるといえるでしょう。
極めて古い寺院である善光寺自身は諸宗山といって宗派は特にないらしく、恐らく霊場になんとなく寺院がある、というのが昔からの感覚なのではないでしょうか。清水寺は法相宗で東大寺は華厳宗ですけど、これらのお寺の名前を見てにわかに宗派が思い浮かぶ人はそれほど多くないでしょう。昔のお寺は宗派ではなく「お寺」だったのではないかと感じます。高野山とかも、むしろみんなの霊場であって、近世まで宗派性はそれほど強くなかったといわれています。最近の仏教は宗派宗派で自分たちを細分化しすぎていると思います。
この善光寺様式の祖であるご本尊は百済からもたらされた日本で最初の仏像の一つといわれているらしく(実際は不明)、そういう重要なものが長野県にあるのはどういうことなんだろうと思うんですけど、白川静さんによると、中国で地中から出てくる青銅器は異民族との境界に呪禁として埋められたものであるらしく、日本の銅鐸にも同じ様な意味が窺われるそうです。(中国古代の文化 (講談社学術文庫) 白川 静 (著) 50ページ以下)
そういう発想の延長として、異民族との境界に聖なるものを置くという風習が残り、善光寺は東戎とのあいだでそういった役割を果たしたものではないかと思います。寺格の高さもそういった役割が関係しているのではないでしょうか。
「町はずれに寺村がついている。これなどは戦のためと言うよりは、寺には広い墓地が必要だったからと考えるほうがよさそうであるし、戦のための配置であることを積極的に証明する材料もない。」(「百姓の江戸時代」 (ちくま新書) 田中 圭一 (著) 142ページ)など、この本のこの前後の記述では町外れの寺村の役割はどのようなものであったのだろうかと考える文章が続きますが、こういった風習の名残ではないかと私は思います。
現代では東方Projectで博麗神社が幻想郷と外の世界の境界の役割を果しているところに、そのような気分の遺存が認められるのではないかと思います。
やはり東方Projectの長所として、ファンタジーでありながらも、こういった日本の古くからの風習、民俗とも言え無い様な世界観が良く取り込まれていて、人の深層意識に染み込んでいて容易に表面化できないようなものも含めて、違和感のない形で全体として纏め上げている所が、優れていると思います。
そういったものから乖離しがちな現代人から言えば、ゲームとして組み込まれた、民俗的な巨大な学習システムともいえるのかもしれません。自国の文化を見直そうという社会の機運と連動しているのは確かだと思います。
戻って、秘仏である善光寺の三尊を模した御開帳仏と呼ばれる今回おいでなった仏像は、非常に完成度が高く、すべてが揃っているという感じがします。せり出す船形光背に迫力があり、地を指す左手が効いています。
ただ遠くからしか観られない可能性が高いので、いらっしゃる方には双眼鏡を持ってこられることをお勧めします。
キリスト教の宗教美術はカトリックが威信を取り戻そうとして発達しましたが、日本の仏教美術は空海が仏教美術をもって法を伝えようとしたのをはじめ、より本質的な意味で宗教的だと思います。この出開帳仏にも人を感化させる美しさを感じます。
次のフロアの二階に上がると、仏像と共に、南無阿弥陀仏と唱えながら木魚を叩くお坊さんが。ずっと同じように唱えているのかと思ったら、緩急があり、途中で止ってお経を唱え始めたりするので、楽章であるとかそういったものがあるのでしょう。やはり木魚は楽器です。
浄土系の宗教は他力なので修行はしない、ということになっていますけど、これはやはり純粋にバイオメカニクスの観点から見て呼吸法の鍛錬になっているんですよね。そうやって観れば決して修行をしないわけではない。
内田樹さんが「現代人の祈り 」((サンガ新書) (内田樹 (著), 釈徹宗 (著), 名越康文 (著) )でだったと思うんですけど、仏教の中でも浄土系は身体性が薄いと書いていましたけど、江戸時代人は一日5合の米を食べていたといわれ、それで太らないくらい身体を使っていたのでしょうから、それを考え合わせれば決して身体性が薄いとはいえないでしょう。
仏教的な正しい方向性が定まれば、後は日常の起居寝食が修行になる、というのは市民の信仰としての浄土系宗教の、実は骨子だろうと思います。
逆に言えば道元の様な人は庶民のような形では働かないでしょうから、宗教の中に身体を使うプログラムを豊富に取り込まないとバランスが取れなかったのだと思います。
前に司馬遼太郎さんは親鸞の弟子と称して、念仏を唱えなかったのではないかといいましたが、氏の場合さらに散歩をする習慣があるということ以外身体を使うということを基本的にしなかった人だったと思います。
そういう意味では昔日の浄土系の信仰とは隨分違うものに変容していたといえるでしょう。姜尚中さんとか吉本隆明さんですとか、現代にも親鸞を好きな知識人と言われる人は多いですが、そういった中で意外と多いタイプの親鸞の受容のされ方かもしれません。生活については存じ上げないのですが、姜尚中さんも、たまには念仏でも唱えてみたりして、身体を思いっきり使えば、鬱気質とバランスが取れるんじゃないですかね?
浄土系は下手をすると現代人にとって堕落の糸口になってしまう信仰のあり方に陥りやすい性質を持っているとはいえるでしょう。
またこの前「マサカメ」でやっていたところによると、絶叫マシーンで怖くなる前に叫ぶと、前頭葉が活性化し、扁桃体が恐怖を発して全身に行き渡るのを防ぐらしく、絶叫マシーンが苦手な人でも楽しく乗れるとの事。恐らく念仏でも同じようなことが起きるのではないかと思います。上の世代では何か恐ろしいことがあると念仏を唱える方々がいましたが、こういった科学的な裏付けがあったといえるでしょう。
また平常時の念仏も、前頭葉について同じように働きかけて扁桃体の過剰な働きを防ぎ、その状態を熏習させるのではないかと推察できると思います。
戻って、このフロアには陸前高田の仏たちが置かれており、要害観音堂の「木造聖観音菩薩立像」は津波で流されて瓦礫の中から発見されたもので、素朴な外見であり、現地で作られたものであろうとのこと。
乞食の姿に尊貴さが薫る珍しい聖観音です。なにか、少し前まで、風流な人達の間には、乞食やそこまで行かなくとも貧乏にどこか美しさを見出していたと思うのですが、そういう感性が消えて久しいのではないでしょうか。
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