上のほうでカルトの話がでましたけど、オカルトの対義語は何かというと、なんでしょうか。科学ですかね。
凝り固まった科学主義は違う、というのは当然として、良識的な科学にも将来変わりうるものが含まれていますし、事実としてサリン事件に関わった人に科学者が多くいました。
ではなにかというと、それは「まっとうな感覚」だと思うんです。科学的な知識など、知識的なものを動員しつつも、見抜く決め手は「まっとうな感覚」だと信じます。そしてそれは感じる力。非言語的なものだといえます。
最近も芸術新潮の唐招提寺の特集で昔の人が、エンタシス、エンタシスと強調するのはおかしいのではないかということが書かれていましたけど、著者はヘレニズム的なゆがみを、過去の文化観の中に見出しているのではないかと思います。
司馬遼太郎さんは、脳をやられたからもうだめだ、と刺客の襲撃を受けた時の龍馬がいったという証言をもとにして「竜馬がゆく」で話を広げ、それは「外科医のような冷静さ」だったとしていますが(しかも本来無色らしい、脳漿が「白い」と書かれています。司馬遼太郎の「リアリズム」を象徴するシーンであると言えるでしょう。)、そこには本人の感覚を基にするよりも、自分を対象として認識して傷の深さを知る方が格好よい、というギリシアからデカルトに至る価値観が反映されていると思います。
それも必要なことなのかもしれませんが、自分の感覚を基にして自分を把握するという能力が、日本の中で凄まじく落ちてきてしまっているのはないでしょうか。
こういったものを極端に失ってしまった象徴的な事件が、サリン事件であり、震災における原子力村・政治だと思うのです。
こういうことは音楽評論の世界で議論の蓄積があるのですが、自分の感覚を基にして、主観を高めていくしか、客観に至れないのだと思うのです。
なので今般の事故における政府並びに関係者の客観的な事態認識の欠如の中に、実は客観ではなく、良質な主観の欠如を私は感じるのです。
それが人を人と思わないような行動であったり、責任の主体としての自覚の欠如。硬直的な対応に表れているのではないかと思います。
またギリシャ文化が権威を持って受け入れられる流れの一つに、直感的な認識から、対象化して言葉で認識して行く事が重んじられてきたことが挙げられると思います。
「前述のごとくアリストテレスにおいては、「驚嘆」は「疑問」に転じ、原因と本質の対象化的探求に向かうものであった。同じく「気づき」の「おどろき」でも、日本詩人の場合、それは彼を新しい知的発見に向かって進ませるよりも、むしろ主客を共に含む存在磁場に対する意識の実存的深化に彼を誘うのである」(読むと書く 435ページ)とのことで、対象化して言葉で認識して行くのではなく、簡単に言葉にしないで深く直観的に認識していくのが、日本人が伝統的に得意にしていた考え方である、というようなことを書いてあるのだと思います。
「荘子が感覚というようなものを一つ一つ重ねても、それは何の認識にも到達しないといって、個別的な感覚を拒否した。(中略)日本人の考え方、東洋の考え方というものは、直観的に本質に直入するという、それがいわゆる悟りであろうと思うのです。そういうことから考えまして。私は文学においては抒情ということが中心で無ければならんと思う」(文字講話Ⅳ62ページ)
ということで、抒情をものを直観的に捉える、つまり言葉以前で感じる力として、井筒俊彦さんが言う所の「主客未分の境位」と同じ意味で使っています。ここに日本人の伝統の優れた所があると共に主張されています。
啓蒙思想には「理性に信を置く主張と、むしろ感性こそを評価する主張との対立」(近代ヨーロッパの覇権 (興亡の世界史) 福井 憲彦 (著) 128ページ)があったというのですが、西洋にはとりあえず現代までそういうバランスの均衡があると思います。
日本はちょっと前まで「経済一流文化三流」なんていわれていましたけれども、そういうバランスの良い社会を築くのに失敗してしまったのではないでしょうか。
そのことによって「あまりまえのことが通じない人たち」、が量産されてしまったのだと思います。
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