東京国立博物館 平常展 ミュージアムシアター 三蔵法師の十一面観音 -インドから唐、そして法隆寺、興福寺、薬師寺へ- その6

#その他芸術、アート

6月27日のスーパーJチャンネルでは5時ごろにiPS細胞の臨床が始まったというニュースをやっていて、萩谷順さんがアベノミクスの重要な柱だという事を言っていましたけど、これまでアベノミクスであると組み込んでしまう報道は非常に疑問です。

同じく5時半ごろには佐田玄一郎衆院議院運営委員長の辞職を短いニュースで伝えましたが(「佐田議運委員長、女性問題の中身 週刊新潮「女子大生と4万円援交」」(http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130627/plt1306271138003-n1.htm))「週刊誌の報道」として誌名は出さず。内容にも触れませんでした。
名前を出さないのは色々言われていますが、やはり引用先として礼を失していますし、中身をしっかり報道して議員辞職を促すのが本来の報道ではないでしょうか。

あるかないかも分からなかった鉢呂発言の扱いより軽いというのはあってはならないと思います。北朝鮮報道よりは多くあってしかるべきなのではないでしょうか。

文春の西村康稔内閣府副大臣の記事(「女性問題「事実でない」 西村内閣府副大臣、NYで語る
」(http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/06/29/kiji/K20130629006111450.html))もニュース中で扱いが非常に小さい様に思います。

「<都教委>特定の日本史教科書使わないよう通知」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130627-00000059-mai-soci)というのもひどいニュース。テレビなどで取り上げられているのをみないのもさらにひどいと思います。

6月27日の報ステのアメリカの原発のレポートの二回目は、コストがかかりすぎて競争力がなくなっているアメリカの原発の現状を伝えるもので、「貧乏神話」の核心に触れる好特集。

本当に時代遅れでどうしようもなく、原発を続ければ続けるだけ貧乏になります。

当日のMOX燃料到着のニュースと絡めて伝えられましたが、御伽噺の世界というと奇麗に聴こえてしまいますが、何かふしぎな別世界を観ている感覚。本当に竹槍でB29を落とそうとしているのではないでしょうか。

「プロメテウスの罠」でも日本テロ対策の脆弱さが指摘されていて、国際的にも北朝鮮などに続いて下から三番目の手薄さで、アメリカから酷評されているとのこと。こういったところを省いてなんとか安上がりにしようとしていますが、その愚かさに気がついたときにはすでに取り返しのつかないことになっているでしょう。

6月14日の「数字で見る五輪招致」という記事では玉木正之さんのコメントとして「復興費の無駄遣いが露呈した以上、復興を理由に五輪開催費が削られるのは不本意だ」とありますが、復興予算は名ばかりのものであって、土木に使われる農業予算と相似形のものです。当座の事業の資金や賠償であるなど、本来の復興費を欲しているところはたくさんあって、復興費を額面どおり復興費と受けるのはまったく受益していない被災者にとって失礼といえるのではないでしょうか。粗雑な議論に陥っています。

また、五輪招致によって、ホームレスの人などが強制移動させられたといいます。そういった人達の職業訓練は優先されるべき予算であると考えます。
玉木さんも含めて特集中このことについて触れいないのは、五輪の報道として、失格といえるのではないでしょうか。

また五輪で問題なのは「文脈」です。普通の純粋な気持ちで開きたい、というのならまだ分かるのですが、所得の先喰いであるアベノミクスなどと同じで、当座の問題をごまかすための打ち上げ花火ではないかと感じるのです。

新銀行東京は清算しないでこのまま行くのでしょうか。記事は都の予算の分析をしていますが、必ず関連するこのことにも触れていません。

ほかにも手をつけるところに手をつけないで、カジノを招致するであるとか、核心的な構造に手をつけないごまかしばかりが、政治の年月の中で降り積もっているように思います。

6月21日の朝日新聞の尾崎文康記者の体罰についてのコラムには、「私にも、黙認の経験はある」とし、中学時代の思い出を書いていますが、柔道の体罰は以前から国際大会で問題になっており、カメラが捉えているとおり、色々なスポーツで観戦していれば指導者の体罰を見かけることが出来たといいます。

どこそこの部活の体罰がどうこう、という話は、私のような一般市民の耳にも聞こえてきます。そういったものを拾って調べてみることもできた(る)のではないでしょうか。

この記者に限らず、スポーツジャーナリズムは体罰を黙認してきた、という事を認めた上で正面から向き合わない限り、真の再生はありえないのではないでしょうか。

体罰と暴力の表記についての記事でしたが、表現の問題以前に、やることがあるはずです。瑣末な所に責任を求め(なすりつけ)すぎているのではないでしょうか。

6月24日の朝日新聞の「消えぬ不安 戻らぬ家族」という記事は、除染と避難に纏わる矛盾と吝嗇と棄民状態を取り上げたものですが、結局何故電力会社は費用を節約しなければならないのか、という視点がありません。

電力会社の経営と賠償を分離していないからであって、そのメカニズムを解説した上で、本格的な国有化を提案するべきなのです。あらゆる特集でこのことはまったく見えないかのように削られていることが、カルト宗教に喩えられる官僚の思考形式と同じものであって、極めておかしい所です。

6月23日の「「移住」を選んでもいいのでは」という記事も同じく。

この月も紙面を批評する欄での池上彰さんは、この表現だと分かりづらい云々といったぬるい記事を書いていますけど、そんなに記事内容に関する不備が見つからないのか。それとも意図的に避けているのでしょうか。

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