またお正月にも集中して消費して、その時の感想も断片的に書いていたんですが、アップしていなかったので、ついでに張ります。
「 知られざる在外秘宝第1回「北斎漂流~初公開 謎のイスラエル・コレクション」」をみましたが、激動の回で凄かったです。欧米のコレクターは必ず裏面に黒印を押すのに、日本人の林忠正という人は朱の印を表面に押すんですよね。かなり状態が良いものにも押されてしまったいるものがあるみたいです。本当に明治はどうしようもない時代だなぁ、という思いを強くしました。それと変わって江戸時代人はちゃんと浮世絵を理解していたといわれますので、そこの補足は欲しかったと思います。
日本の浮世絵風景画、特に北斎の富士は当時ロシアの脅威に晒されていた日本の独立不羈の精神が表れているといわれます。
この回の主人公のコレクターのティコティンさんはポーランドの分割に喘ぎ、ユダヤ人として迫害された中で、日本人が独自の文化を花開かせた浮世絵を独立の象徴として生涯蓄集・守ったそうですが、ティコティンさんはこのことをもちろん知らなかったでしょう。
スタジオの研究者の人に、ここら辺のことは本来指摘して欲しかったと思います。
それにしても、欧米を十分凌駕する独自化を花開かせた国、というのは特に国土の小さい国では限られるという事を当時の人の目から改めて感じました。
中国・インドですらも、庶民文化に支えられた、浮世絵や和算の様なマニアックな発達ぶりはありませんからね。
それにしても私は北斎の重要文化財指定はすべてで3点と聞きましたが、国宝を30当ててもまったく足りないと思います。明治以来のこういった美術観はとうに改められるべきだと思います。
「知られざる在外秘宝 プロローグ」もみましたが、在外秘宝を振り返ることで美術の東西、その受容のされ方、美意識などを包括的にとらえることができました。
この番組を観ると、蒔絵がキリスト教の儀式の中心にあったり、実はピアノが漆塗りを再現しようとして今のようなデザインになったということがあったり、東西の美意識にそれほど壁がないのが観て取れます。
美術史もそうですし、音楽界も(許光俊に至るまで)そうですが、歴史的な事実と照らしあわせてみると、東西の美意識を違うものとして峻別しすぎていると思います。
それに関連して、この番組とは直接関係ないですが、日本美術に対するいくつかの偏見について書いておきたいと思います。
まずは作家性についてですが、近世以前の作品を語るときに個人的な心情が入っていない、とよく分類されますが、とても良く入っていると思うんですよね。入っていないように誤解される理由はいくつかあって、それはやはり近代以降の人の気質が荒れているということでしょう。気質が荒れているので、荒れたものが入っていないもの、即心情が入っていない作品、と分類しがちだと思うんです。
あとはロマン派が自分たちの独創性を鼓吹するために、それ以前は心情が入っていないとなかば歴史を創作する所があったのではないでしょうか。
浮世絵は風刺性が強くて、あの広重でさえ軍事機密をかすめて書いたりしています。
それ以前でも、鳥獣戯画が解りやすく例に挙げられますけど、絵巻物は作家性の塊のようなものが多いと思います。
また「奇想」という考え方はフェノロサ以来の日本美術=飾りという考えを受け継いでいます。そもそもの飾りという意味には「日本の芸術は純粋芸術としてではなく、応用芸術である」という彼自身の括り方からわかる通り、西洋絵画のような精神性を持たないという意味が込められていたと思います。しかし逆に飾りであるというのを積極的に捉えていき、その装飾性を楽しもうとしたのが、奇想という考え方であるといえます。
しかし私は「日本美術=飾り」という考え方自体がおかしいと思います。
日本の美術は神に捧げられるものであって、その人の技巧は徳性と表裏一体であると考えられていました。それを飾りという言葉で総括するのは、悪い意味で真剣さを欠いていると思うのです。
そしてそこには戦前から戦後の東洋思想への社会的評価の低さが反映しているのだろうと思います。
また日本画=余白の美、という分類にも非常に違和感を感じます。
漫画は確かに書き込まれていないという意味で余白が多いですけど、余白の美というわけではないでしょう。同じような事を日本画を観て感じます。
余白の美という日本画の捕らえ方は、北斎を異端視するようなフェノロサ・天心流の美意識や和辻哲郎式の古寺観などから生まれたもので、禁欲的な軍国主義的な美意識の文脈が入り込みすぎていると思います。
余白というのは結果であって、狙いではない場合も非常に多いと思うのです。
このような理解がいかにも半未開的な素朴な芸術であるかのような誤解を国内に齎していると思うのです。
「 極上美の饗宴 シリーズ 世界が驚嘆したニッポン(3) 「漆のダ・ヴィンチ 柴田是真」 」の特集もみましたけど、改めて超人過ぎて凄まじいです。現代の人がコピーしようとしたのですが、単刀直入にいえば、素人が作ったかのような再現レヴェルでした。
富士山の大作は、全体像が映った瞬間、身体がぞわぞわして収まりませんでした。
NHKの「追跡者 ザ・プロファイラー 「スティーブ・ジョブズ“シンプルに、前へ”」」では石井清純(花園の辞書で一発変換)さんというお坊さんが出ていてICチップによるコンピューターの小型化について、煩悩を増やしただけではないか、といっていましたが、煩悩とは利便な製品のことではなく、製品に執着して主客転倒する事をいうのです。製品自体は利便性の故に人を大いに助け、震災の時を出すまでも無く、時には命まで救うことがあるわけですから、それを否定するならあらゆる文明を否定しなければなりません。このようなことをいうと秋月龍珉師などの努力にもかかわらず、結局禅は文明を相容れない宗教、という所に間違って迷い込んでしまうのです。
宗教にかかわるものは、最前線の新製品が、自分たちがルーティンワークでお経を唱えるより遥に多くの人を救っているという事実の前に謙虚になり、それを乗り越える努力をつぎ込むべきなのです。
講談社学術文庫の「道元禅師語録」の23ページに小刀についての問答がありますが、小刀に使われないようにするのが仏教であって、小刀を手放すのが仏教ではないわけです。(道元のこのエピソードに対する付けたしは、主客転倒につながるような元になる認識すら存在しない、というアピールであると解釈できます。)ここの区別ができないと先人の努力も空しく、当代で仏教は迷妄な宗教の烙印の押されて、社会で活溌溌地の働きを示することは出来ません。この人は公共の電波で非常に未熟な見解を披露してしまったとおもいます。
前にもダライラマが日本に来た時、浄土系の某宗派のトップと誌上で対談していたのですが、車を走らせて環境汚染をするよりお経を唱えた方が世の中の為になると発言。アメリカなどで布教する際にはこれだけで無視されかねない暴言で、ダライラマも内心あきれたのではないかとおもうのですが、鎌倉時代に仏教の革新を掲げた浄土系仏教が現代においてそのトップが最も迷妄な見解を示していることにいたたまれないものを感じます。
一つの解決策として、こういう重責を将来期待される人は、海外に単身飛び出て布教をして武者修行をする事を課したら良いのではないでしょうか。
VTR中の曹洞宗北アメリカ国際布教師の乙川弘文さんという人の方が、科学と禅といった関係について、もっと突き詰めた見解を持っていたのではないでしょうか。
小型化による質的な変化の大きさは見逃せません。
石井清純さんは横の元アップルの福田尚久さんに、乙川弘文さんが科学を否定した見解を、ジョブズ科学を突き詰めなければいけないんだ、と誤解されたという話として受け取らせてしまったと思います。
こういう誤解が起きるのは寂しいですが、特にしっかりした人が説く禅は、本来科学と親和性の高い仏教なのです。
リンゴの広告を見たときの、余白があって云々、という感想も常套的で記号的。仏教で重視されるご自身言葉というものに達していないように思います。
横の人が、ジョブズは本質に興味があった人だ、ということをいっていましたけど、何のためのシンプルか、という所を突き詰めて話す必要があったのではないでしょうか。
nextの時の迷いについてもやっていて、「叢林」ということについて話されていましたけど、next以前のジョブズのあり方が「叢林」だったかというと、そうとはいえず、ピントがずれているように思います。
なので、むしろ悟後の修行について話すべきだったのではないかと思います。
道場で悟りを開いてから、禅僧には社会に戻っていく修行が残っているわけで、本当にしっかりしていないとそこでずれてしまうんですよね。
実話かどうかは不明ですが、宮本武蔵が旗ものさしを振って折れるものと折れないものを選別していた、なんていう話もありますけど、そのように折れないようになるのが本物であって、そこを目指していくわけですが、しっかりした経験を積んで、基本となる体験があれば、きっと途中でそれそうになっても立て直せるんですよね。そういう過程を感じさせると思います。
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