土曜日の「メレンゲ」には羽鳥さんが登場。一人暮らしと紹介され、いかにも侘しく一人で暮らしているような話を披露。恋人がいるのは、秘密なんですかね?一部週刊誌かたまちゃんの番組を聞いていないとそういうことは知りませんからね。
たまちゃんに細かく電話して、最初は話していたんだけど、最近は無視されるようになった、といっていましたけど、たまちゃんが言っていた、私のことは遊びだったのね、というのはこういう意味だったんですね?!
10月5日のテレ朝の午前9時45分ごろには、この時間帯恒例の、また中身のない、東京ガスによる、総括原価方式からの還流である、めちゃくちゃ長ったらしいCMが流れていましたけど、まったくもって許しがたいものです。
業界の癒着に、内部から改革の声は上がらず、外部も提言せず、いまだに何事もないかのようにこの仕組みが続いているということは、あってはならないという以上のことです。
10月5日の日テレの「news every.」では国会事故調の野村修也さんがみずほ銀行の反社会的勢力への融資について語っていましたが、国会事故調のメディアについて何の改革の提言のもない報告書は、メディアに対するココセのようなもので、それでこのような所でコメンテーターをやっていること自体が反社会的ではないかと思うのです。
10月2日の午後5時半ごろのNスタではアベノミクスをメディアで最も推進しているといっても過言ではない経済学者の飯田泰之さんを招いて現状を解説。給料が上がっていないのではないか、生活が苦しくなっていっていると感じている人が増えている、と振ると、短期的にみればそうだが、生活が苦しくなっていると感じているのは以前の半分である、と2010年の調査を持ち出して説明。
それとはいいませんでしたが、この年はリーマンショックの影響がまだ残っていた時分です。
また、安倍政権の前半が上手く行き過ぎた、と踊り場状態を説明。あのようなことをうまくいっているというのであれば、それは野田政権末期から、というべきです。
「[識者はこう見た!「半沢直樹」ヒットの理由と法則/桧山珠美]猿でもわかる単純明快ドラマだった 勧善懲悪を好む日本人のDNA」という見出しだけ見つけて中身を読めていないのですが、これは違うといえます。
善玉・悪玉というわかりやすい伝え方が開発されたのも江戸時代ですが、歌舞伎の内容は勧善懲悪という内容ではとてもくくれない複雑なものが多く、能も同じです。
最近でも「もののけ姫」がヒットしたときに、日本人はこういった複雑な物語がわかるが、海外では善と悪がはっきり分かれていないと分からないんだ、といった主張が多く観られました。
とはいえ、水戸黄門など現代に単純な勧善懲悪ものが人気を得ている(た)のは事実です。
そもそもの日本人の江戸時代までの文化性では、簡単には割り切れない複雑な物語を好んでいたが、明治以降近年までに、単純な勧善懲悪ものも流行るようになってきたといえるでしょう。
ちなみに勧善懲悪について調べていたら、南総里見八犬伝が出てきてウィキペディアに「儒教的道徳にもとづいた勧善懲悪の物語」と書かれていましたけど、八犬伝がそうなら、たとえば、国芳の浮世絵も「儒教的道徳にもとづいた勧善懲悪の物語」を描いたものが結構多いということになってしまうと思うんですよね。
今でいうと儒教道徳と特殊化されてしまいますが、当時の人にとっては普遍的な人の道であって、型どおりの作法というのではなく、清廉な内面から出てくるものであると捉えられていたでしょう。
まったく責任であるとか、人として当然のことが全く社会から抜け落ちている今であるからこそ、こういった過去の文化を「儒教的道徳」と特殊性に落とし込まないで、虚心に、率直に、学んで受け継いでいくことがとても重要なことだと思います。
土曜日は今日はスマステをやっていないようで、つけたら大久保さんと檀蜜さんの番組をやっていて、高級マンションで靴を脱いで他の所に行こうとしたときに「盗むような人はいないから。」という会話があったのですが、何かお金のあるなしで盗むとか盗まない、という話が最近はすごく増えたと思うんですよね。みのさんの所の話を引くまでもなく、お金があっても無くても盗む人は盗むんですよね。
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